「タウラン好きの若者たち(1)」(2017年01月09日)

夏目漱石の「坊ちゃん」を読むと、中学校と師範学校の生徒が互いに相手を敵に回し、集
団で喧嘩するシーンが登場する。あれがインドネシア語で言う「タウラン」。インドネシ
アのタウランは、tawuranというキーワードでユーチューブ動画を検索すると、凄まじい
シーンがいろいろ登場する。武器を持って闘うシーンは決してドラマややらせではないリ
アルなものであり、路上に倒れて動かない者がしばらく後にこと切れたというようなケー
スもあるらしい。

tawuranというのは大勢で喧嘩すること、とKBBIに説明されている。日本でも昔そう
だったように、中学や高校に入ると同じ町にある別の中学や高校が仇敵になっていて、グ
レた先輩が下級生を扇動して仇敵学校の生徒を襲撃させる。下級生は恨みも憎しみもない
けれど、そういう環境に投げ込まれたために戦闘員と化して、暴力三昧の世界に引きずり
込まれて行く。

日本では、そういう現象が何十年も前に町の中から姿を消したが、インドネシアでは強火
になったり下火になったりという浮沈はあるものの、いつまでも消えることなく続いてい
る。なんでそうなるのか?


それはやはり、インドネシア文化の中の価値観のひとつに「男らしさ・強さ・勇ましさ」
の三点セットが根強く息づいているからだろうとわたしは考える。男というのはそういう
存在であることによって優れた価値ある人間として社会から認められるという昔ながらの
コンセプトが未だに強く残されているからにちがいない。

どんな文化であろうと、優れた人間という価値観が社会構成員の深層意識に刷り込まれ、
そのオブセッションに駆られて優れた自分という自己実現をはかるのが人間の本性だとす
るなら、文明発展段階の低いレベルにある文化が持つ価値観の中には、高度に高まったレ
ベルの文化であれば野蛮として排斥されている価値観が優勢に残されているケースが多々
あるのも事実なのだから。


そういう、男はすべからく戦闘要員として有能でなければならない文化では、自己実現の
ための鍛錬の場が必要であり、更には有能である自分を顕示するための場も必要になって
くる。だからタウランがその機能を果たしているようにわたしには思えるし、それは日本
の剣豪たちがかつて行った果たし合いという場にオーバーラップして見えてくる。

現代に生きるわれわれにとって、はたして暴力を使う闘争に強いことが自己の文化で優れ
た人間という価値を持っているだろうか?また、その面における優れた人間、つまり戦闘
の強者、になりたいという欲求あるいは憧れがどれほど強いだろうか?欲求の強い者はそ
の種の道場に通って能力を磨くにちがいないが、磨いた能力を実戦に使いたいと望むだろ
うか?そしてついには、本気でそういう実戦の場を求めて彷徨しはじめるのかどうか?
[ 続く ]