「タウラン好きの若者たち(2)」(2017年01月10日)

刃物や凶器を持って集り、暴力闘争を求めて敵学校生徒と集団で対決し、投石合戦のあげ
く刃物や凶器をふるって敵をたたっ殺すようなことをしている若者像と自分との遠近関係
はどうなのだろうか?


暴力が否定され排斥された文化では、人間の本能的な闘争志向心はスポーツやゲームとい
った競技での勝負に誘導されたり、あるいはプロスポーツ界のファンとなる場を設けてそ
こへ流入させるような仕組みが講じられている。

ひいきのプロスポーツチームが優勝すれば、ファンはあたかも我が事のように狂喜乱舞し、
大いなる法悦境の中へとのめりこんでいく。我が事のように喜ぶのは、ひいきチームが自
己のアイデンティティの一部に取り込まれたからであり、本能的な闘争志向心はそこに注
入されていくがために実戦での勝利と同じ心理がそこに発生するようにわたしには思える。
だからひいきチームの勝利はきっと、我が事そのものになるはずだ。

格闘競技のファンになるひとは多分そのものずばりのものを好むのだろう。だが格闘競技
でないスポーツ競技であっても、ひいきチームが負けると暴れ出すファンがいる。スポー
ツ競技の観衆が暴徒化する現象に、人間の本能的な闘争志向心理が関与しているような気
がするのはわたしだけだろうか?スポーツ競技というのは上述したように、人間の本能的
な闘争志向心を日常社会生活から離すためのエンクロージャーだったのではなかったろう
か?

暴徒集団と化すのは群集心理が関わっているわけだが、その発火石となるものがノーマル
な社会生活から抹消された物理的闘争の場を求める闘争志向心理であるのなら、それは人
間の文明化を進めている西欧文明とそれに応じきれない人間の本能との相克だというひと
つの構図が浮かび上がって来る。現代西欧文明が描く人間の未来が、人間そのものの内部
にある本能的なものによって崩されていくというイロニーはわたしの脳裏で、西欧文明諸
国がテロリストに脅かされている昨今の情勢にオーバーラップしていく。後者の方は文明
の衝突と言われているものの、人間の本性が暴力・殺人・破壊と表層心理で混じり合って
いた時代の文明を維持している人間が実践する行動に対する、文明化して暴力・殺人・破
壊を日常生活から排斥してしまった人間たちの間の相克という見方を取るなら、現代西欧
文明が形成しようとしている人間像・社会像に対立する人間の本能的なものが調教・教化
を拒否して牙をむいている、という一点にそれらふたつの現象が集まってくるように思わ
れるのである。


インドネシアに話を戻そう。
わたしはインドネシアのタウラン好き青少年を見て、それを単なる狂気と割り切ってしま
うよりも、かれらは文化の中の価値観にあわせて自己実現をはかっている誠実な(しかし
視野狭窄の)若者たちではないかという印象を抱いてしまう。世界中の青少年もそうして
いるように、その文化の中での優れた人間になるための努力がインドネシアではそういう
姿を示しているように思えて仕方ないのである。つまり狂っているのは青少年でなく、文
化の方なのではないのだろうか?[ 続く ]