「スラバヤ・スー(14)」(2017年01月11日) ある夜、みんなが敵のラジオ放送を聞いているとき、タントリは自分の耳を疑った。同僚 たちはクスクス笑いをしている。 「クトゥッ・タントリの身柄を、スラバヤでも他の町でもかまわないが、NICA司令部 に引き渡したインドネシア人には、5万フルデンの報奨金が与えられます。」 普段はつまらない中傷など無視しているタントリだが、これは絶好のチャンスだと思った。 タントリはラジオ発信機をオンにするよう同僚に頼み、自分はマイクの前に座った。 「わたしはクトゥッ・タントリ。わたしに懸賞金がかかったことを告知したアナウンサー さん。よおく聴きなさい。インドネシア共和国エリア内で、フルデン紙幣はただの紙切れ でしかないことが分かっているの?インドネシア共和国ではルピアという通貨が使われて います。それを知っていながらインドネシア人を騙そうというのかしら? もしオランダ人がインドネシア独立のための闘争資金に50万ルピアを寄付してくださる のなら、わたしは自分であなたがたの司令部に足を運びますよ。」 叛乱ラジオ局のその放送を傍受した全国各地の私設ラジオが、空中で行われたその舌戦を 話題にして地元民に流した。民衆は手を叩いて喜んだそうだ。 オランダ側からのタントリの懸賞金に関する告知は、二度とオンエアーされなかった。 実は当時のオランダ通貨フルデンは、オランダ本国が連合軍に解放されたときに1米ドル 2.652フルデンという交換レートが設定されていたから、タントリの懸賞金5万フル デンの価値はおよそ1.9万米ドルくらいのものだった。 一方、タントリが要求した50万ルピアの価値を米ドルで計ったらどうなるだろうか?イ ンドネシア共和国が国際的に認知される1949年まで、ルピアも国際的には認められて いなかったから、正規の交換レートは存在しなかったということになる。 とは言っても、共和国の支配地域では流通しているのだから、オランダ人に50万ルピア を持って来いと言っても、何らおかしいものではない。ただ、フルデンとの交換レートが 存在しないのだから、オランダ人も調達には困るだろう。 1949年11月にルピア通貨が国際的に認知され、外国通貨との交換が可能になった。 そのときの対米ドルレートは、1米ドルが3ルピア80セン(3.80ルピア)だったか ら、そのレートを使うなら50万ルピアは13万米ドルくらいになる。 その後、スカルノ政権末期にルピアはすさまじい暴落を示して1米ドル5千ルピア近くま で下がった。スハルト政権は固定レートに変えて変動を抑制したが、非力のルピアは切下 げを免れることができず、何度も切下げを重ねたあげく、1966年に定めた1米ドル2 50ルピアという固定レートは1985年に1千ルピアを超え、1998年の通貨危機で ついに万の大台に乗ってしまった。[ 続く ]