「bersaya beraku」(2017年01月17日)

ライター: 文学者、バリ州シガラジャ国立師範大学言語芸術教育学教授、スナルヨノ・
バスキ KS
ソース: 2013年2月1日付けコンパス紙

新曲の予定について質問する司会者に答える若いセレブリティが述べる言葉を聞いて、わ
たしの気分はたいへん苛立った。かれは実に気楽に「lagu aku」「album aku」という表
現を連発した。所有を意味する場合の文法上の決まりである「laguku」「lagu baruku」
「albumku」「album baruku」という表現をまったく使わないで。われわれは「mobilku」
と言い、「mobil aku」と言わない。とはいえ、口語におけるakuという語の使用は、若者
層を中心にして広まっているように見える。これは若者世代特有の反抗現象の一形態なの
だろうか?更なる研究が望まれている。


国語センターのKBBI(インドネシア語大辞典)でakuは、親密な形態の一人称単数代
名詞であると説明されている。祈りの中でわれわれは、神との間にaku、Kauを使っている。
神に向かってわれわれはKauあるいはEngkauと呼び掛ける。アミール・ハムザの詩を見て
みるがよい。「Engkau ganas」「Engkau cemburu」・・・

KBBIはまたkuという語彙を採り上げ、一人称代名詞akuの省略形であり、また動作者
(kuambil)・所有者(rumahku)・目標(memukulku)を示す接辞形であるとも説明している。
これは常に接着する形態の-kuと自立して主体的に機能するakuが異なるものであることを
示している。もしもakuが所有格として使われるなら、われわれを当惑させずにはおかな
い。しかしながら、生命を持っている口語の世界では、その用法も妥当だと見られている。
その証拠に、mobil akuという表現はジャカルタの若者たちの間で広範に使われているの
だ。


KBBIでsayaという語はakuよりも丁重で恭しい一人称代名詞と説明されている。スシ
ロ・バンバン・ユドヨノ大統領はスピーチやインタビューの中で自分自身を指す言葉とし
てakuを使ったことがなく、常にsayaを使っている。氏がジャワ出身者からだろうか?ジ
ャワ人でないBJハビビ氏も、わたしの間違いでなければ、akuを使わずsayaを使ってい
る。

インドネシア語では、話者を指すhambaやpatikのような語彙を選択することで尊敬を形式
的に表しているが、ジャワ語やバリ語などの地方語では尊敬や非尊敬を示すのにさまざま
な語彙が選択されている。

makanを意味するジャワ語のnedaは尊敬を表す場合にdaharが使われ、一方バリ語では
medaarという言葉を聞けば粗野な印象に襲われる。客人に食事を勧めるのにmonggo neda
というのは尊敬の念が感じられず、monggo daharと言わなければならない。バリ語なら
marayunanなのであり、medaarではいけないのだ。


一部のひとびとに対する呼びかけでも、言葉を選ばなければならない。わたしの友人の教
官は教室で学生たちに対し、kalianと言う。かれはジャカルタでセミナーを受けて優秀な
成績を得たため、次のセミナーを受講しに行くひとびとの指導員の役割を与えられた。と
ころがかれの指導を受ける教官たちの中にはシニア教官も少なくないというのに、かれは
相変わらず教場でkalianを使った。そして、かれの指導員の仕事は一期だけで終わった。
かれにkalianと呼ばれて気分を害した同僚教官が少なくなかったにちがいない。

手本とするのに適切なインドネシア語を誰から学べばよいのだろうか?英国ではクイーン
ズイングリッシュが知られている。インドネシアに「大統領閣下のインドネシア語」はあ
るのだろうか?国営テレビTVRIにはかつて、インドネシア語の発音が素晴らしいパプ
ア出身のニュースアナウンサーがいた。手本とされるべきTVRIインドネシア語がなけ
ればならないのだろうか?