「akuとsaya」(2017年01月18日)

ライター: 短編作家、インドラ・トランゴノ
ソース: 2016年4月16日付けコンパス紙

人間と同様、インドネシア語も生命を持っている。われわれは言語を使うとき、その生命
を感じ取る。口語や文語のコミュニケーションで相手に高慢だとか礼儀知らずだと思われ
ないよう、守らなければならないエチケットがあるのだから、われわれは適切な言葉を選
ばなければならないのだ。たとえばakuとsayaの使い分けに見られるようなものだ。

インドネシア共和国初代大統領スカルノはレトリックと魅力に満ちたスピーチの中で頻繁
にakuを使った。たとえば、「Berikan aku 1.000 orang tua, niscaya akan kucabut 
Semeru dari akarnya. Berikan aku 10 pemuda, niscaya akan kuguncangkan dunia.」と
いう文章。

スカルノがakuを用いたのは、民衆と親密で対等な関係を構築したかったためだ。それと
は別に、かれは民衆の手本たるべき指導者としての権威ある姿をも示そうとした。必然的
に社会的ポジションは民衆より上になる。それゆえ、かれは民衆に教訓・忠告・指導を与
えることを自分にふさわしいものと考えた。政治的イデオロギー的に、民衆はかれの子供
と位置付けられた。

スカルノはまたsayaという語を、国内外の指導者たちに対するスピーチで多用した。自己
卑下して自分と同等あるいは上位にある他者への尊敬の念を示すのが目的だ。

上述のイラストは、sayaとakuが実際は同じポジションにあることを示している。いずれ
もが一人称単数の代名詞なのだ。しかしその精神と用法には違いがある。sahayaに由来す
るsayaは「奴隷」の意味を有している。実際にsayaという語はhamba sahayaという集合語
を略したものだ。だからsayaという語は自分より年長あるいは社会ステータスが上位の者
に対して使うのがふさわしい。たとえば、「Saya berharap Bapak Guru berkenan 
menerima dan mendidik anak saya di sekolah ini.」

その文章は倫理に則り、礼儀正しく、コミュニケーションにおける快適な雰囲気を生み出
している。その文章のsayaをakuに替えてみれば、快適な雰囲気が消えてしまうにちがい
ない。


akuはよりパーソナルで実存的であり、さらにより権威的でもある。だからハイリル・ア
ンワルはその詩の中にakuを使ったのだ。「aku ini binatang jalang dari kumpulannya 
terbuang」

その文からは、ヒロイズム、勇壮さ、燃え上がる感情、安定した体制への反抗精神や扇動
が感じられる。その節のakuをsayaに取り替えたものと比較してみればよい。きっとその
詩は軟弱な印象を与え、心を揺さぶるものにならないだろう。


今、年長者や社会ステータスの上位者との会話にakuを用いる若者が少なくない。討論会
でも、たくさんの若者たちが故意にakuを使っている。たとえば「Aku sengaja tidak 
memandang budaya tradisi sebagai entitas penting karena bagi aku, budaya tradisi 
identik dengan masa lalu. Out of date. Arkais. Kuno. Jadul.」

akuという言葉を使って若者たちは、より対等で、よりパワフルで、より深い自己とより
重い権威を持つ自分を感じている。若者たちのそういう語法に慣れていないひとたちは自
動的にかれらを高慢になったと評価する。しかしそれに慣れているひとびとはそうでなく、
言葉を使うことに関してエチケット知らずだとかれらを見なす傾向を持つ。あるいは、言
語封建主義を打破するためにわざとぶち壊しを行っているのだというように。