「akuとsaya」(2017年01月20日)

2016年7月20日付けコンパス紙への投書"Tentang Aku dan Saya"から

拝啓、編集部殿。インドラ・トランゴノ氏(2016年4月16日付けコンパス紙)とウ
ィスヌブロト BK氏(2016年5月10日付けコンパス紙)はakuとsayaについて述
べている。両者はそれをエチケットと関連付けている。

わたしが思うに、問題は言葉の上の礼節ではないようだ。インドネシア語に関するわたし
の認識と理解に関するかぎり、一人称単数代名詞の本来的で正しいものはakuだけではな
いだろうか。akuがsaya(sahaya)に替えられたのはヌサンタラの封建制度が栄華を極めた
時代で、それが習慣化してsayaが普通になり、最終的に一人称単数代名詞の標準の座に納
まった。hambaも同様だ。そのふたつの単語はKBBIも標準の位置に置いている。

akuという語は高貴さの色合いを帯びるようになり、一般庶民が使うのはふさわしくなく、
それを使う者は丁重さに欠け、高慢であると見られるようになった。時代が変わって、
sayaという語も話者のエゴイスティックな図々しさ示していると見られるようになってそ
の使用も疎外され、結局は話者が自分の名前を一人称代名詞の代わりに使う形へと進んだ。
その結果、インドネシア語の会話に混乱が起こるようになる。たとえば、Sanaという名前
の人間がこう言ったとしよう。「Jika Sana menggelapkan satu rupiah pun uang negara, 
gantung Sana di Lapangan Banteng.」

この文章にひとは戸惑ってしまう。国庫の金を着服したと疑われているのは誰なのか?
話者のSanaが意図しているのは多分、本人なのだろう。だからもし本人が国庫の金を着服
したのなら、絞首刑にされて構わないと言っているにちがいない。もしそうであるなら、
かれはこう言うべきだ。「Jika aku (saya) menggelapkan satu rupiah pun uang negara, 
gantung aku (saya) di Lapangan Banteng.」

しかし正しい文法に従えば、国庫の金を着服したなら絞首刑も辞さない話者のSanaでなく、
別のSanaが存在しているのも確かなのだから。
[ 東ジャカルタ市ラワマグン在住、ミカ・パヌスナン・ルンバントビン ]