「路上交通に見る文明度(1)」(2017年01月23日) 5分18秒ごとに交通事故が発生し、20分ごとに国民ひとりが交通事故で死亡し、そし て4分ごとに怪我人がひとり出ている。実に戦争状態を彷彿とさせる事態がインドネシア 国内に起こっているのだ。 戦争では、わが生命を惜しまずに戦闘の場で自己のパワーをフル回転させ、敵の殲滅もし くは敵を後退させるという成果を出す人間が英雄として称賛される。「命知らず」「命要 らず」というレベルにおける「強い者」が優れた人間なのである。交通戦争という言葉が 使われる以上、交通現場に戦争まがいの観念が巻きついており、その結果戦争もどきの被 害が出ているという理解は果たして大仰なものだろうか? もしその見方に妥当性が感じられるのなら、インドネシア人が持つ人間観、あるいは人間 というものの価値観、がそういうものの見方から見えてこないだろうか? それは単に、法規への不服従とか、あるいは運転技術や車両整備能力が劣悪であるなどと いったことがらを超越したレベルでかれらを覆っている価値観なのであり、言うまでもな く、不服従とか技術・能力のレベルが世の中に応用されている事実を下支えするものでも ある。こういうものを民族性と呼ぶひともいるが、文化の中にある価値観という言い方の ほうがよりフォーカスが合っているようにわたしには思える。 人類の長い歴史の中で、比較的最近まで世界中のあらゆる場所で、その人間観(そこでは 人間=男性というロジックが使われていて、女は人間という枠のマージナルな部分しか与 えられていなかった)が文化の中にある価値観の重要な部分を占めていた。世界制覇をな した西欧文明は特殊な西欧の状況を踏まえた西欧的価値観を育み、「生命尊重」「人間尊 重」という観念を文明の一目標と定めた。出生率の低い人口密度の希薄な社会で、それは 当然と言える帰結だったにちがいない。 その結果、アンチ「生命破壊」やアンチ「暴力」がサブ目標として導き出される一方、日 常生活における生命損失を極小化するための医学や安全性に対する考え方、ものの見方に も進歩が起こった。 こうして第二次大戦後の世界をリードする西欧文明は、その独自の価値観で世界を指導し、 「命知らず」「命要らず」を犯罪視する方向へと進んだが、その一方で「命知らず」「命 要らず」たちが起こす戦争や武力行動、さらには暴力行為を武力・暴力で叩き潰すという ダブルスタンダードへと向かうことになった。つまり建前はそんな美化されたものを理想 の旗印に謳いながら、実態はその実現のために否定されるべきものを温存するという皮肉 な結果をもたらしているようにわたしには見えるのである。 建前の話を続けよう。歴史の長期に渡って人類の男たちが培ってきた「強いパワー」の価 値観が否定され、安全・平和・穏健・非暴力といった日常生活からの「強い」「弱い」の 勝負を排除する姿勢に価値の重点が移行するというのは、つまり人類=男性コンセプトが 女性化されることを意味しているにちがいない。フェミニズムというのはそういう底流の 中から浮上して来たひとつの観念なのであり、西欧文明における進化と無縁のものでは決 してない。[ 続く ]