「スラバヤ・スー(23)」(2017年01月24日)

タントリがその務めを果たしてモジョクルトの奥の山中にもどっておよそ一週間経ってか
ら、かの女宛てにインドネシア共和国政府の公式書状が届いた。情報大臣が面会を望んで
いるので、ヨグヤカルタまでお越しいただきたい、という内容だ。ジャカルタがAFNE
I進駐軍の統制下に置かれたために、1946年1月4日、共和国政府はヨグヤカルタに
首都を移した。だから政府要人はすべてヨグヤカルタにいる。

アリ・サストロアミジョヨ情報大臣はタントリに中央政府で働いてほしいと望んでおり、
ヨグヤカルタに移ることを考慮してほしいという説明も書状の中に書き添えられていた。
東ジャワの一民間ラジオ局で狭いエリアを対象に活動するのでなく、中央政府が全世界向
けに行っている活動に是非力を貸してほしい。独立インドネシアを盛り立てて行くことが、
スラバヤという一地域に向ける対策よりもはるかに大きい効果を持っているのは疑いがな
い。ヨグヤカルタからはThe Voice of Free Indonesiaというラジオ放送が全世界向けに
発信されている。

これまで培ってきたブントモや叛乱ラジオ局の同僚たち、更にさまざまな活動で知り合っ
た人民保安軍や民間戦闘部隊の戦闘員たちといった人間関係の中で、気安さの中の日常生
活を続けたいという念願をタントリが持たなかったわけではない。しかし、独立インドネ
シアへの貢献を誓ったタントリにとって、ヨグヤ行きは避けることのできない運命の道だ
ったのである。決心するまでにそれほどの時間はかからなかった。


タントリはモジョクルトを去ってヨグヤカルタに向かった。情報省を訪れると、市内のホ
テルムルデカを宿舎にするよう手配してくれた。情報大臣に面会すると、大臣は最初の仕
事としてスカルノ大統領の英語スピーチの原稿作成を命じた。

世界向けに放送される大統領初のラジオスピーチだ。タントリは精魂込めて原稿を作った
が、ほどなく大統領は流暢に英語を話すことがわかった。どうやら大統領は初スピーチを
格調高いものにしたかったようだ。

そのスピーチは大きい成功をおさめ、世界的な反響を引き起こした。するとタントリは大
統領官邸に呼び出された。スカルノ大統領が会いたいそうだ。

タントリはサルンとクバヤを着て、ホテルをひとりで出た。徒歩で行ける距離だ。しばら
く歩くと、ヨグヤの民衆が物珍し気に集まって来て、タントリの後ろについて歩きはじめ
た。民衆の列はどんどん長くなり、「これじゃまるでハメルンの笛吹だわ。」とタントリ
は微笑んだ。民衆はタントリが大統領官邸に入るまでついてきた。

官邸でタントリは豪華な応接室に案内され、しばらく待たされた。やっと現れたスカルノ
大統領はサルン姿に短いジャケットを着てコピアを被り、リラックスした雰囲気でタント
リに相対した。

「お待たせして申し訳ない。さっきわたしは盛装していたのだが、あなたがインドネシア
の伝統衣装でお見えになったので、急遽これに着替えた。せっかくあなたがその姿でいら
っしゃったのだから、わたしもそれに合わせるのがふさわしいと思ったからです。」
[ 続く ]