「路上交通に見る文明度(2)」(2017年01月24日)

西欧文明がその母体となった宗教から脱し始めたのは、西欧文明が進めて来た価値観の進
化が必然的にもたらしたものであり、要は宗教が誕生した数千年前の人類が持っていた女
性観に対するアンチテーゼだったのではないかと思われる。宗教が人類の観念進化におけ
る初期段階の論理を踏まえて構成されている以上、宗教離れは避けることのできない帰結
だろうとわたしは見ている。


一方、多産なアジア型文明が培ってきた生命観は西欧文明の生命観と完璧にフィットする
わけでないのだが、西欧文明風ライフスタイルに呑み込まれてしまうと、西欧文明の基本
観念は意識されないままその民族の基本観念の中に浸透してしまうことになる。


女性化に向かう価値観を自己の文化が目指すべき命題とする諸民族の中にも、旧態然たる
「男の値打ち」を確信し、実践しようとしている人間はたくさん残っている。インドネシ
アや中東で優勢な宗教文化は、紀元7世紀ごろの価値観を色濃く反映したまま、今日まで
観念の西欧文明的進化をほとんど起こすことなく持ち越されてきているわけで、その両者
が出会えば文明の対立や衝突が発生するのはあらためて指摘するまでもないことだ。

このロジックの流れは死刑に対するものの見方にも流れ込んでいく。死刑は野蛮であるか
ら廃止せよ、という掛け声は、社会が持つ生命観がそれなりに西欧文明化した土地で適正
な価値観であり、生命を虫けらのように扱う感覚がまだまだ強い社会には妥当でないのが
明らかだろう。そういう社会はもちろん西欧文明から見て野蛮な社会なのであり、そんな
野蛮な社会であるからこそ、それなりに秩序を構築するためのツールとして死刑が使われ
ているのだから、そのツールを使わないように強制したところで、社会が西欧文明化する
かどうかはわからないはずだ。

かえって社会の秩序構成を歪んだものにしてしまえば、その民族にとっては困る状況に陥
るかもしれない。この種の押し付けは世界をリードする西欧文明諸国が昔から連綿と続け
て来たものだ。今日に至るまで、生徒となった国々への教育指導という形で数多く実践さ
れていることがらであり、優秀な生徒になった国もあれば、民族の秩序をずたずたにされ
てあえいでいる国もある。想定した成果に至らなかった実例は掃いて捨てるほどあるだろ
う。勝てば官軍とはよく言ったものである。本当にその民族にとって有意義なことをした
いのであれば、薄っぺらな「死刑制度廃止」を叫ぶのでなく、その民族が持っている生命
観の文明化まで含めたものの見方がなされるべきではあるまいか?

国民の中に西欧文明化を求めて死刑廃止を叫ぶ者があるにせよ、国民大多数から国会はて
は大統領に至るまで、「まだ死刑は必要だ」としているインドネシアの世論を愚か者と切
り捨てる前に、生命観という広い裾野を眺望することを念頭に置いてほしいものだとわた
しは考える。[ 続く ]