「スラバヤ・スー(41)」(2017年02月20日)

港を出たふたりはしばらく歩き、港から見えない場所で待っていた車に乗り込んだ。車は
整然としたシンガポールの街並みを抜け、緑の多い郊外に向かい、大通りを離れて無舗装
の道路を走り、手入れの行き届いた邸宅に滑り込んだ。そこは華人青年の一族の住居で、
タントリはその家にしばらく逗留することになる。

その夜は安心してぐっすりと眠り、目覚めると太陽はもう中天高い。昨夜、総出で歓迎し
てくれたその家のひとびとは、みんなで市内へ買物に出かけたとその家の使用人が食事を
用意しながらタントリに話してくれた。サルンクバヤしか持っていないタントリがその姿
で街中に出ればたいへん人目を引くから、洋服を買ってきてくれるそうだ。

所在なく、その邸宅の庭を散歩していたタントリは、一台の自動車がやってきたのを見て、
慌てて屋敷内の自分の部屋に隠れた。自分の存在はまだ秘密にしておかなければならない
にちがいない。


しばらくすると、「クトゥッ・タントリ!」とかの女の名前を呼ぶ声がする。何となく聞
き覚えのあるその声に不審を抱きながらも、タントリは部屋を出た。客間に立ってタント
リを呼んでいたのはなんと、インドネシア共和国国防省の大佐とその連れの少佐のふたり
だったではないか。

ふたりは二週間以上前からシンガポールに来て、ビラを一軒借りて滞在している。ふたり
は共和国の公務で武器や船を買付けに来ているのだ。もちろんオランダ植民地のパスポー
トで合法的に入国している。この家からかれらが住んでいるビラに移ってもらうために、
かの女に会いに来たのだそうだ。
「どうしてわたしがここまで来たことを知っているの?」
「マラヤの岸辺に着いてから、アンボン人船長はシンガポールのわたしのビラにやってき
て報告した。あなたを上陸させるための手配をしたのは、このわたしなんだよ。」

タントリはもうしばらくこの家に逗留することにして、ふたりの客人は帰って行った。し
かし、インドネシア人の間で秘密を持つのは不可能に近い。既にたくさんのシンガポール
在留インドネシア人がタントリのことを知っており、あなたに会いにインドネシア人がち
らほらとこの家を訪れるかもしれない、と大佐が帰り際に言ったのにタントリは当惑した。
密入国者が有名人になってどうしようというのだろうか?


タントリはその一家が買ってきてくれた最新ファッションの洋服が少しも自分の身体にな
じまない思いを抱いて、内心鬱屈を感じた。サルンクバヤ姿で暮らせたらどんなに気分が
晴れるだろうか。だが、今のかの女の立場では、シンガポールでそれは望めないことなの
だ。

その邸宅での一週間は、タントリにとって退屈な毎日だった。一家のみんながタントリの
無聊を慰めてくれ、その家の主人は夕方になると気晴らしにかの女をドライブに誘ってシ
ンガポールの島の中をあちこち回ってくれた。だが、タントリが街中に姿をさらすのは危
険だと言う。

10日ほどが経過してから、家の主人がタントリに「もう街中に出ても安全だ。」と言っ
てくれた。[ 続く ]