「パンチャシラよ、永遠なれ(3)」(2017年03月01日) 標準化された日本語訳ではこのKetuhananという語義を「信仰」としているが、それを奇 妙に感じるのは、わたしだけではあるまい。名詞に付けられたke-anという接辞は、その 名詞の性質を示すものなのである。神は信仰される対象概念なのであって、神が何かを信 仰するという話は聞いたことがない。神が持っている性質の中に信仰が混入されることは、 視点の混乱ではないかという気がする。 つまり「信仰」というのは神に相対する人間の側が持つものであって、神の側に自出的に 存在しているものではないということだ。人間が神を戴くときに出現するのが信仰なので はなかったろうか?だからこそ、一神教だというのに人間はその神をさまざまに描き出し て、その異なる姿をひとりひとりが区別し、選択さえしているではないか。 ちなみに標準英語訳を並べてみると、Ketuhananがbeliefと訳されており、それが「信仰」 という日本語を導き出しているように見える。つまり日本語訳はインドネシア語原文から 直接導かれたのではないという可能性が浮上して来る。 Ketuhanan Yang Maha Esa : Belief in the absoluteness of God : 唯一神への信仰 KBBIにsifat keadaan tuhan, segala sesuatu yg berhubungan dng tuhanと説明され ているketuhananに対応する英語はdeityであって、beliefではない。 オックスフォード辞典にはそれらの語義がこう説明されている。 belief : persuasion of the truth of anything, religious faith, the opinin or doctorine believed deity : divinity, godhead, a god or goddess Deity : the Supreme Being 日本語の信仰という言葉もそうだ。 信仰というのはもちろん、神に関連するあらゆるもののひとつではあるのだが、それは神 に相対する人間の側に属しているものなのであり、神自体に付着しているものではないと わたしは考える。神は神として、それを神と定義付けるあらゆる性質を持ってただそこに 存在しているだけであり、その神に相対する人間がそのものを神と認め、存在しているこ とを信じ、それに服従しようとする。それが信仰という言葉が持っている意味合いではな いのだろうか? だからより適切な英語訳として、Deity in the absouteness of Godとされるのが本来的 な意図を汲み取った表現になったのではあるまいか?結局のところKetuhanan Yang Maha Esaという語句が述べているのは、多神教でない一神教型の神性あるいは有神論を国家の 基盤に据えるということなのであり、いわゆる一神教のカテゴリーに属するイスラム教・ キリスト教・ユダヤ教を国民に信仰せよと命じているわけではないのである。 もし英語訳=日本語訳の語義通りの理解が国是となっているのなら、インドネシアは宗教 国家になっているはずだ。国は国民に国是への服従と遂行を命じて、その国是を実現させ なければならない義務を負っているはずではないか? もし国家原理の筆頭項目が一神教への信仰を命じているのであれば、国民の間に宗教警察 が幅をきかせ、国民は無神論的言動に戦々恐々とし、かつてアフガニスタンで行われたよ うなタリバン政権下のアマルマッルフナヒムンカル政策そのものが行われても不思議では ないだろう。しかし現実はそうなっていない。[ 続く ]