「パンチャシラよ、永遠なれ(4)」(2017年03月02日)

「一神教以外の信仰者と無信仰者は非国民であり、国民としての権利は与えない」という
ような宗教国家でない現実が国家設立の最初から世界中の目にさらされてきた。もしその
ようなことをすれば、人道主義や全国民にとっての福祉繁栄といった他の原理項目に違背
することになる。教義や合議を重要視する人間集団が、たった5項目の国家原理の中に互
いに矛盾しあうものを並べて平然としているようなことが、本当に起こりうるのだろうか?

人間集団の叡知は独裁者には持てないロジカルな合理性を生み出してきた。われわれが歴
史を学ぶのは、そういう人間観がわれわれの内面に育つのを促進させるためでもある。


だから、インドネシア共和国国家原理の筆頭項目は国民に一神教の信徒になるように命じ
ているのでなく、この共和国は一神教型の有神論を基盤に置くのだということを表明して
いるように思われる。言うまでもなく「信仰」というものが一神教型有神論の概念の中に
含まれるものであるのは間違いない。ではあっても、そこに見出されるのは視点の高さの
差異というものだ。有神論という原理が肯定される場においては、信仰という個人的な細
かいものごとは二次的なものでしかない。国が国民ひとりひとりの信仰のあり方を追いか
けまわすようなことをするかどうかということなのである。


このあと登場する第4代大統領アブドゥラフマン・ワヒッ氏の実弟、サラフディン・ワヒ
ッ氏の2016年9月に公表された論説の中で、パンチャシラ筆頭項目に関連することが
らの中に出現しているのは有神論型国家が描いてきた歴史の軌跡がもっぱらであり、個人
的集団的な信仰という面はわずかに触れられているばかりだ。そこを見ただけでも、イン
ドネシアの知識人はKetuhanan Yang Maha Esaの語句をどのように理解しているのかとい
うことが推測できるだろう。

日本語であれ英語であれ、上で見て来たような誤訳あるいは誤解が作られていることによ
って、一部外国人のインドネシアに対する間違った理解が促されているように思えてなら
ない。いったい、何を目的にしてそのようなことが行われたのだろうか?

国是で一神教の信仰を国民に命じておきながら、国民生活は禁欲的清教徒的なイスラム色
に覆われておらず、ミニスカギャルが舞台上で飛び跳ね、田舎のダンドゥッステージでは
女体を浮き彫りにさせた衣装で歌手がセクシーに身をくねらせている実態を知るに及んで、
インドネシア人はチャランポランだという意見が退きも切らない。

インドネシア人はチャランポランでないと言うつもりはわたしにない。ただ上のような意
見を育ませているひとびとの思考法の中に、間違ったことがらが詰め込まれているのを指
摘しているだけだ。間違ったパーツを組み上げて行けば、飛行機の形が出来上がっても、
空を飛ぶことはできない。ものごとはニュートラル且つ正確に把握されるべきではないの
だろうか?

あちこちで拾い上げた言葉を検証も肉付けもなく、ただ観念的に組み上げてひとつの概念
を構築し、他者を見下し蔑視するべく使うという小児じみた性向が上のような誤訳によっ
て助長されているようにわたしには思える。偏った情報の中で育まれた狭い人間観がもた
らす弊害をわれわれはそこに見ているのである。[ 続く ]