「パンチャシラよ、永遠なれ(6)」(2017年03月06日)

(2)Kemanusiaan Yang Adil dan Beradab (公正で文明的な人道主義)
改正憲法第28条で生存権・医療や教育を受ける権利・結社の自由・意見表明権・信教と
宗教祭祀の自由・福祉的生活の権利・法の前の平等の権利・国民の保護される権利などを
含む国民の基本的人権は保証されている。

憲法が保証している諸権利の一部は実現しているものの、まだ達成されていないものもあ
る。医療サービスを受ける権利は2014年から開始されたので、その医療サービスにま
だまだ足りない面があるのは当然だ。2014年の世界栄養報告によれば、栄養不良の国
民がまだたくさんいる。

クオリティのある基礎教育中等教育を受ける権利も、まだ完璧に満たされてはいない。国
民就学期間・施設の不適切な小学校数・教育方法を訓練されていない教員・教員の生活福
祉が満たされていないことなどがそのファクターになっている。

法律の適用をだれもが同じように受ける権利も、一般国民は概して享受できていない。法
は権力に負け、金に負け、群衆の圧力に負けている。法は下に向かって鋭利だが、上に向
かっては鈍重だ。民衆は医薬品やジャムウのニセモノの害から保護されていない。アーチ
ストはかれらの著作品への保護が与えられていない。


(3)Persatuan Indonesia (インドネシアの一体性)
この第三項目も標準日本語訳と英語訳では「インドネシアの統一」「The unity of 
Indonesia」となっている。ただ、この項目に関連してインドネシア人が通常述べるのは
persatuan dan kesatuanであり、そのふたつの概念のうちpersatuanが選択されたと見る
のが妥当ではないかと思われる。つまり両者が持っているニュアンスの差がその結果を生
んだということだろう。

ここで再びインドネシア語接辞の原則に立ち返ると、persatuanはber-動詞であるbersatu
が名詞に変化したものであるという理解が出現する。つまり「一体化する」という動詞が
「一体化すること」という名詞にされていることがわかる。インドネシア民族の一体性、
つまりはビンネカトゥンガルイカがこの項目の柱になっていると見るべきではあるまいか。

多様性を持つインドネシアがひとつにまとまる、あるいは団結するというニュアンスがこ
のpersatuanという言葉から感じられることが、パンチャシラを定めた建国の父たちの意
図を汲むことになるのではないかという気がわたしにはするのである。そのとき、「統一」
あるいは「unity」という言葉が読者にそういうニュアンスをもたらしてくれるかどうか、
というポイントが出現する。もちろん、「統一」という語が誤訳だと言っているのでなく、
もっとそのニュアンスに肉迫する言葉はないのか、という疑問だ。

もうひとつのkesatuanについては、ひとつにまとまったものを一個として外から眺めてい
る心象が出現する。kesatuanが使われる語のひとつにNKRI(Negara Kesatuan 
Republik Indonesia)がある。NKRIというのは既に統一された一個の存在なのであり、
上のpersatuanがひとつにまとまろうとして中でうごめいている動的性質を言外に語って
いるのとは異なり、kesatuanは既にできあがったひとつの統一体を形態的に述べている
ようだ。

わたし個人の語感では、「統一」という語はkesatuanにより近く感じられ、persatuan
に対しては動的ニュアンスのより強い「団結」や「一体化」という言葉をついつい選択し
たくなる。事の当否は読者におまかせするしかないのだが。[ 続く ]