「スラバヤ・スー(58)」(2017年03月15日)

タントリはシドニーからパースへ飛行機で飛び、パースからシンガポール行きの船に乗っ
た。シンガポールで入国させてもらい、領事館でパスポートを交付してもらえるだろうか?
それは行ってみなければわからないことだ。タントリは思い煩うことをやめた。


シンガポール港での入国手続きで、もう顔なじみになった担当官たちがどよめいた。「お
お、またスラバヤ・スーが来たぞ。今度こそパスポートを持って来ただろうな。またパス
ポートなしで許してもらおうなんて甘いことを考えちゃいけないよ。」

タントリはざっくばらんに手の内を明かすしかない。すると「オランダから苦情が来てい
る。」と担当官が言う。イギリス生まれだというだけの理由で、オランダの敵を正規の手
続きなしに入国させているのは国際法違反だ、とかれらは言っているそうだ。

しばらく押し問答が続き、「パスポートのないスコッチ女性を庇ってくれる騎士の国はシ
ンガポールしかないでしょう。もしイギリスの新聞に『日本軍の拷問に苦しんだスコッチ
女性にパスポートがないというだけでシンガポール当局が過酷な扱いをした』という記事
が載ったら、スコットランド独立運動がまた騒がしくなるんじゃないかしら。」というと
どめのセリフで三回目の入国を果たした。


オーストラリアで仕事していた数ヵ月間に、インドネシアの状況は厳しさを増していた。
警察行動という言葉でカモフラージュしたオランダの軍事攻勢は既に中部ジャワの主要都
市や村を席巻し、インドネシア共和国首都ヨグヤカルタを陥れんばかりに近づいていた。
大佐や同僚たちは帰国しており、ビラは空き家になっていた。タントリはそこに戻ると、
アメリカ領事館を訪れた。

領事はパスポートを渡すためにアメリカ行きのチケットを示すよう求めたので、タントリ
は650ドルを工面してボストン行き貨物船のチケットを購入し、それを持って領事館へ
行った。こうしてタントリはやっと自分の国籍を証明する書類を入手できたのである。
自分がスラバヤ・スーでなくなる日が近づきつつあった。その呼び名はかの女にとって厭
わしいものであったにせよ、そんな名前で呼ばれている期間にかの女が果たしてきたこと
は、かの女にとって大切で、また愛おしいものでもあったのだ。

船のチケットを買ったあと、金はもうほとんどなかった。港へのタクシー代、船内でのチ
ップ、それらを差し引けば、ほとんどゼロに近い。

シンガポールでタントリが別離の挨拶をするべきひとはもうほとんどいなかった。弁護士
でレストランオーナーの華人は北部マラヤへ出かけていて留守だ。船に乗り込む前、タン
トリはシンガポールで親しくなったストレーツタイムズの女性レポーターとその夫の三人
で食事し、そのあとタクシーで港へ行った。寂しい出立だった。

自分の人生の軌跡の大部分を占めることになった東南アジアを去るタントリは感無量だっ
ただろう。15年間の歳月に刻まれたあらゆる思い出をかの女はそこに残していくのだか
ら。[ 続く ]