「ホウクスがインドネシアの弱点(3)」(2017年03月15日)

学校の宗教の科目においては、ワヒッ財団の調査にも上がっているように、教師が生徒を
ラディカル化に駆る可能性が残されている。政府は教室で教員が教える内容をコントロー
ルしなければならないのである。


サイッ・アキル・シロジ、ナフダトウルウラマ会長はムスリム国民に対し、Wali Songo(
九聖人)の歴史を思い起こせ、と呼びかけた。昔イスラム宣教者たちがインドネシアにイ
スラム布教を行ったときにジャワ島でどのような形の布教がなされたのかを九聖人の歴史
が物語っている。宣教者たちは暴力を使って強制するのでなく、地元文化を媒体にしてイ
スラムの教えを異教徒である地元民に広め、それが最終的に受け入れられたがために地元
にウンマー社会が形成されたのである。イスラムの優れた点を示し、宣教に努めようとす
るムスリムは、九聖人の先例を見倣わなければならない、というのがインドネシア最大の
ムスリム民間組織ナフダトウルウラマ会長の話だ。

インドネシアのイスラムは民族主義の中にある宗教のひとつという位置付けであり、サウ
ジアラビアにある宗教生活をインドネシアという土地で実践するためのものでないことを、
インドネシア宗教界は断言している。ところがインドネシアムスリムの中には、そういう
ものごとの仕組みが理解できず、サウジで行われている宗教生活をインドネシアで実践す
るのが正しいイスラムのあり方だという原理主義的考えに染まっている者が少なくない。
この種の文化宗主国現象というのはあらゆる分野で起こりがちなものであり、イスラムと
は無縁の外国人までがサウジの宗教生活通りのことを実践していないインドネシアは似非
イスラムだという奇妙な論を展開することがある。日本の歴史では、かつてあった文化宗
主国現象が乗り越えられてきているのだが、どうやらかれらにとって宗教というのはそう
いう範疇の外に存在しているものであるようだ。それは甚だ危険な兆候であると言えるの
ではあるまいか?

ともあれ、宗教宗主国サウジアラビアの宗教植民地になることを是と考えている者たちが、
インドネシアというエンティティに危険をもたらす要素のひとつになっている。ましてや
戦闘的なサウジのワハブ派宗教指導層から指令や金が宗教指導と共に出ているとなれば、
ムスリムとしての理想を追求する善行の針路をどうするのか、というのは未成熟な若者た
ちにとって、たいへん難しい問題になるだろう。


もうひとつ若者たちを危険な道に駆ろうとする障害は、ソーシャルメディアがもたらして
いる。嘘やでっち上げた情報、事実に対する歪んだ脚色や解説などというホウクスとヘイ
トスピーチの問題がそれだ。

個人にせよ集団にせよ、自分のコミュニティ外の人間に対する嫌悪や憎悪は人類が長い歴
史の中で本能の中に浸み込ませてきたものだ。現代西洋文明の旗印に描かれた「リベルテ
・エガリテ・フラテルニテ」がグローバル社会の頭上で振られるようになってから経過し
た時間の短さに比べたら、本能の一部としてこびりついた不寛容性はそう簡単に剥がれ落
ちるはずもあるまい。[ 続く ]