「不安全食品ビジネスと人間愛」(2017年03月16日)

タングラン市内で1980年以来、ソースやサンバル類を大量に生産して全国的に販売し
ていた工場PDサリワギを食品薬品監督庁が無許可操業の容疑で摘発した。同庁によれば、
この工場は食品薬品監督庁が審査と指導を行う食品安全許可をまったく申請しておらず、
またこの工場が出荷する製品の包装に記されているNo.361496Dep Kes RI MD 
No145310008131も架空のものであったことが判明しているとのこと。地元政府保健局が与
える許認可番号は家内工業のためのものであり、一日5トンもの生産規模を持つ大型工場
がそんな行政管理だけで済むはずがない。

この工場は37種類ものブランドをつけてタングラン・ブカシ・ジャカルタ・セラン・ス
カブミ・バンドン・ランプン・パレンバンなどに製品を出荷し、その中のいくつかのブラ
ンドは各地でバソ・ミーアヤム・シオマイ・チロッなどの食べ物屋台商人が広く使用して
いた。

この工場は自動化が大幅に進められてリサイクル瓶の洗浄から瓶詰やパッキングまでベル
トコンベヤーによる工程が大部分を占めている。ところが奇妙なことに、工場内にはコー
ンスターチやヨード含有塩の袋が山積みされているというのに、主原料になっているはず
のトウガラシ・トマト・バワンなどの姿が見当たらない。工場内作業員の話によれば、製
造工程ではコーンスターチ・塩・砂糖・酢・着色料が混ぜられているだけで、素材となる
野菜・香辛料はまったく使われていないとのこと。またその工程の作業員たちはマスク・
頭巾・手袋などを一切使わず、床は濡れた状態になったままで、衛生管理が行き届いてい
ないことを伺わせていた。食品自体にも非合法の保存料や着色料が使われており、衛生管
理を行う以前の状態であるのは言うまでもないことのようだ。

製品はリサイクル瓶やプラスチック袋に詰め込まれているが、リサイクル瓶の洗浄は見た
目と臭いだけが問題にされており、衛生的見地からの対応はゼロであることが推測される。
プラスチック袋は新品だが、清潔な場所での保管体制は見られず、衛生観念の欠如した作
業員が適宜気ままに使っているありさまだった。

食品薬品監督庁はこの工場に対して即時操業停止を命じ、市場に出された製品をすべて回
収するよう命じた。タングラン市保健局長はこの工場に関して、1992年に家内工業と
しての許可申請がなされて承認された、と語る。その後家内工業でないため許可条件に適
合しなくなっているため、正規の許可申請をするよう警告して来たが、工場側は正規の手
続きを踏まなかった、とのこと。


インドネシアでは、人体に危険な素材を使って食品を作り、それを世の中に流して生産者
は大儲けをするという実例が昔から絶えたことがない。消費者の迷惑をかえりみることな
く自分の利益のために法規を破るという、インドネシア文化内にある法規不服従という価
値観のせいだという視点からそれを見るだけでは、きっと不十分だろう。なにしろ、これ
は食品安全に関する問題なのである。

この問題の裏側には、インドネシア社会が持っている文明後進性が強く感じられる。つま
り、世間にいる消費者、(同じインドネシア国民であり、ひょっとしたら生産者と同じア
イデンティティ要素を満たす人間かもしれない)、が自分のコミュニティ外の人間である
というポイントにおいてヨソモノ視され、赤の他人が生きようが死のうが、ガンになって
苦しもうが、自分とは関係ないというフラテルニテ欠乏精神が他人に不安全な食品を食べ
させて自分は大儲けすることに抵抗を感じさせないという面をもたらしているように感じ
られるのである。

その種の人間が先進国社会にいないわけではないが、かれらが不安全食品ビジネスに走ら
ないのは、構造的な社会規制が存在しているためであるように見える。つまり、文明の価
値観に裏打ちされた社会構造が不心得者を容易に不安全食品ビジネスに走れないようにし
ているのではあるまいか。

だから、インドネシアの国民所得が上昇して豊かな国民生活が営めるようになったとして
も、それが自動的に人間の文明度を高め、文明的な社会構造が育まれて行くようになるの
かどうか。先進国社会においても、フラテルニテ欠乏人間が多々存在している事実がその
答えを示しているのではあるまいか?