「モノよりポリの方が豊か?」(2017年03月17日)

ライター: インドネシアナフダトウルウラマ大学教官、ナフダトウルウラマイスラム教
高等学校教官、コミュニティ「文字の家」リーダー、ファリス・アルニエザル
ソース: 2017年2月18日付けコンパス紙 "Kebudayaan Waktu Kita"

大作「The Dance of Life」の中でエドワード T ホールは、文化の性格と様式をふた
つのタイプに分類した。ポリクロニックとモノクロニックだ。その区分はいまだに論議を
呼んでいる。

ホールの見解では、ポリクロニック社会というのは時間について柔軟な見方をしている社
会だ。時間に対して折衷的で大まかな見方をする。時間は精密さの単位でなく、「妥協性」
の単位になっている。

反対にモノクロニック社会では、時間は杓子定規で曖昧さのないものとされる。モノクロ
ニック社会の人間は普通、自分たちは規律が高くて時間を守る社会だというイメージを抱
いている。

時間を無駄に費やしたならそれは物質的な損失であるという意味付けを、かれらは行う。
この種の社会でよく使われる格言が「時は金なり」というものだ。時間は金銭なのである。
時間を失うのは金銭を失うことと同じなのだ。

時間に対する見方あるいは姿勢が物質に対するものと同じようになり、その結果、時間と
いうものは物質的エンティティと認識される。

われわれはそのような特徴の人間を、人間の活動が時間で細かく決められている工業化社
会で容易に見出すことができる。ヨーロッパで最初に起ったその波は、今やグローバルレ
ベルの現実と化している。

< 勤務時間 >
モノクロニック概念で統御された社会を描写するとき、イギリスはそのベストサンプルだ
ろう。1750〜1850年の産業革命以後、社会・経済・文化などを含むほとんどすべ
ての生活分野において、大きい変化が起った。イギリスだけでなく、世界中で。

労働パターンは高い精度の時間単位で統御されるようになり、それへの服従が強いられた。
労働時間に関するさまざまな規則が作られて、こうして労働時間や勤務時間といった術語
が出現し、生きることは機械的でロボット的なものになっていった。

モノクロニック社会はたいへん高い規律レベルを有する傾向にある。時間に対する姿勢が
約束ごとを融通性のない硬直的なものにしているのだ。遅延はあってならず、プログラム
の延長もない。約束ごとをするのなら、規準は時間(jam)なのである。siang, sore, 
malam, sekarang, nanti などの「とき」(waktu)ではないのだ。


一方、ポリクロニック社会はビヘイビア社会であり、時間というエンティティに対する姿
勢と意義付けに関して生活態度はより柔軟で折衷的である。このような社会は通常、時間
を硬直的で余裕がなく、精密なものであるとは見ていない。

漁民や農民として生活を成り立たせている者が大部分を占める社会に、われわれはそのよ
うな暮らしの特徴を見出すことができる。そのふたつの労働分野は社会生活における時間
というものに対する思考パターンの形成に大きい影響をもたらしている。

ポリクロニック社会は時間を話し合うことのできる妥協的なものと見なしている。つまり
硬直的な約束などは存在せず、すべて話合いの可能なものだということだ。ポリクロニッ
ク社会においては、招待されていない高位高官が突然出席することを表明したとき、催事
は大混乱したり、あるいは中味が変わってしまう。ポリクロニック社会の最高主権者は硬
直的な決まりなのでなく、状況に対する柔軟性と妥協性なのである。

約束に使われる単位は通常、時間でなく「とき」が使われる。たとえば、「イシャの後で
会おう」「ズフルの後で待ってるよ」「会議は明日夕方のちょっと遅めの『とき』にしよ
う」。ポリクロニック社会の時間に対するものの見方が柔軟で妥協的であることを、それ
らのすべてが示している。


モノクロニックにせよポリクロニックにせよ、それらふたつの時間文化の形態には長所も
あり短所もある。実際には、硬直的で余裕のないモノクロニックの習慣を文化の隅々にま
で行き渡らせている社会を目にするのは稀であり、同じようにポリクロニック型習慣をあ
らゆる面に適用している社会を見つけることもむつかしい。

今現在インドネシアは、それら二本の足を踏まえて立っている。都市部に広がっている工
業化の形式は社会構成員をモノクロニック型に誘っている一方、住民の大部分が農民と漁
民で占められている村落部の文化は言うまでもなくポリクロニック文化であり、時間の柔
軟性はたっぷり維持されている。

モノクロニックとポリクロニックの両文化を白と黒のディコトミーに対立させる姿勢は、
間違いと言って悪ければ、妥当なものであると言えない。実生活におけるその両者の境界
線はたいへんにぼやけているのだ。そのうえで、あなた自身はどうなのか?どちらの時間
文化の中に、あなた自身はいるのだろうか?