「アイデンティティ社会(1)」(2017年03月21日)

アイデンティティとは、自分が何者であるのかということについての定義付けのようだ。
もうひとつ言うなら、自分が所属して自己と同一視している優れたエンティティが他のも
のと異なっていることに関する定義付けでもある。劣っていると考えるエンティティを自
己と同一視する人間がありえないのは、人間がみんな持っている自己正当性のゆえだろう。
劣っていると考えるエンティティは他人のものでなければならず、そんな構図が他人を見
下そうとする他者蔑視や差別・対立・敵対感情の水面上に浮いている。きわめて原初的で
主観に満ちた「オレ様はエライ。誰にも負けない優秀な人間だ。」という排他的な観念が
そういった現象を作り出しているようだ。

そのような人間が抱くアイデンティティとは、往々にして自分を取り巻いている、幼少期
からなじんだ、そして自分が優れていると見なしているエンティティを表すさまざまなシ
ンボルであり、その者が依存的であればあるほど自我とシンボルが一体化していく様相を
呈する。自分は自分であり、自我の外部に存在しているエンティティを客観的に評価して
優と劣の諸相の一部だけを自我と同一視できる人間はシンボルに呑まれることがなく、シ
ンボルを客体として扱うだけになる。

言い換えるなら、かれやかの女のアイデンティティはシンボルで表現されないものとなる
わけだ。たとえば、ある国ある民族に生れたひとりであっても、その国その民族を自己の
支配者にするのでなく、自己はコスモポリタンとして自分が所属する国や民族を他国・異
民族と同じ距離に突き放すのである。自分が所属するかどうかという要素に依拠して自分
が所属するエンティティを盲目的に受け入れ、それ以外のエンティティを否定的感情で眺
めて、そこにあるさまざまな客体を対立的に扱う、というようなことをしない姿がきっと
それだろう。

真のグローバリゼーションに到達するとき、愛国心や民族精神が価値を持っていた時代は
過去のものとなるはずだ。それが過去のものにならない空間では、いつまでたっても真の
グローバル社会が形成されないにちがいない。


インドネシア文化では、依存的人間というあり方に価値が置かれている。家族主義の原理
をなすものがそれであり、人間は互いに頼り合い、もたれ合い、支え合い、助け合って、
人間の和合を世の中に実現させるのが美徳とされているのである。個人を更に個人に磨き
上げていこうとするのでなく、自分を受け入れて社会構成員として成り立たせてくれるエ
ンティティの一部分に人間をしていくのがそこにある依存性であり、自由人という独立し
た個人の概念はそんな依存性の中で発展の芽を摘まれてきた。

インドネシア文化の中では、いまだに個人主義がエゴイズムと同一視されて社会悪と定義
付けられている。インドネシア社会を構築している文化が家族主義という人間の相互依存
性を絶対価値として礎石に据えている以上、それを破壊する個人主義は悪とされて当然だ。
ところが現実問題として、インドネシア社会に人間の和合という美徳や社会正義を実現さ
せることを蝕んでいる障害は個人主義でなくてエゴイズムであるというイロニーが、個人
主義とエゴイズムの弁別思考をしてこなかったかれらにはよく見えていないように思われ
る。[ 続く ]