「アイデンティティ社会(2)」(2017年03月22日)

自分を支配する者は自分本人であるとする強い自我を持つ個人の集合体は、圧倒的な数の
相互依存的構成員を擁する巨大エンティティと匹敵することを歴史が示しているようだ。

人間は自分が所属するエンティティの一分子でしかないという原理を持つアジア型の集団
主義は、自分を包含するエンティティの中での協調や調和を目指して自我を弱めることを
善としてきた。現代に生き残っている大きい勢力の宗教はすべてアジアで生まれたもので
あり、みんな社会生活における人間の和合が善であると謳っている。

だからこそ自分が所属するエンティティ、つまり自分のコミュニティを個人の利害よりも
優先させることが善なのであり、それが人間としての優れたあり方だというロジックが起
こり、、エゴイズムは排斥されるべき卑しい姿勢であると位置付けられ、さらに個人を重
視するあり方がエゴイズムを生むのだから個人という形態に磨きをかけることは悪事であ
るという価値観が定着してしまう。

人間は唯一神のしもべであって、神の教えを遵守するのが人間の義務である、というのが
宗教というものだ。多神教も同じで、人間はヤオヨロズの神々に支配されて日々の暮らし
を営み、長い人生を終えて行くのだから、それらの支配者に対する勤めを怠れば悲惨な人
生に沈んで行かざるをえないというロジックも、自分が自己の支配者であり、主権者であ
る、という観念とはそぐわない。


紀元前480年にペルシャ軍30万人の襲来を迎えて、わずか3百人のスパルタ人がテル
モピュライでそれを迎え撃ち、互角の戦いをしてペルシャ軍の侵攻を阻んだ史実を描いた
映画スリーハンドレッドでは、強い個人を育て上げるためのスパルタ教育の成果と、集団
の一分子でしかない弱い自我がより集まった大集団の戦力が大差なかったことを製作者が
主張しているようにも思われる。

しかしながら、西洋文明の源流と言われる、このスパルタを含むギリシャ文明の中に個人
主義が見られたとしても、それが現代西洋文明の個人主義思想を生んだという論説は本当
に的を射たものなのだろうか?

ギリシャ文明の産物は大量にイスラム社会に吸収されて、かれらが高度な文明を築くこと
を支えたものの、人間観の一思想である個人主義は宗教に抑圧されて砂漠の砂に埋められ
た。イスラム文明の繁栄の陰で暗い歴史を歩んだ西ヨーロッパの中世という時代も、個人
主義は宗教に抑圧されて火あぶりにされた。

数百年という宗教の時代を経たあとで西ヨーロッパで宗教という強大な袋の空気抜きが始
まったのは、行き詰まりを打開するために人間が持つ反動行為というダイナミズムのゆえ
ではなかったのだろうか?人間の頭の上に覆いかぶさっていた宗教の重みが低下すればす
るほど、自分が自分の主体者であるという個人主義思想がこれまで人間が低くしていた頭
をより高くそびえさせる結果を生んだ。

それが新たな発明発見の時代をもたらし、大航海時代を生み、地球全体をかれらの足下に
ひれ伏させる結末に導いたのではなかったのだろうか?人間が自分自身の主体者になった
とき、そのような人間の集団が持った強さは歴史の中であのような形を見せて証明された
ようにわたしには思われるのである。[ 続く ]