「深夜にスラマッパギ?(4)」(2017年03月23日)

ならばhariの定義はどうだろうか?hariとは;
1.waktu dr pagi sampai pagi lagi
2.waktu selama matahari menerangi tempat kita
3.keadaan yg terjadi di waktu 24 jam
等となっていて、深夜0時から始まる一日という定義が見付からないのである。

1.の定義はjamで表わせないから、2.の定義を使わざるを得ない。その一日12時間論理
が使われるなら、pagiというのはマンアヤッの言う通り日の出から太陽が高く昇るころま
でを指すということになる。アメリカ人が深夜にグッモーニンと言ったところで、インド
ネシア人がその真似をしてスラマッパギと言うのは適切でないということになりそうだ。
ちなみに日本語や中国語の「朝」は相変わらず日の出に関連付けられていて、アジア型の
「朝」の定義はどうやら西欧型とは異なっているようだ。

日本語では周知のとおり朝の挨拶を「おはよう(ございます)」と述べているものの、
「朝」という語義はそこに含まれていない。だから対面する両者の間で「早い時間帯」と
いう感覚が一致するかぎり、何時であろうが使っておかしくないことをそれは意味してい
るように思われる。特定の業界で夕方であろうが夜であろうがそういう挨拶が交わされて
いるのは、決して奇をてらったものでないと言えるだろう。これは意味論からの分析を行
っているのであって、慣習とは別の視点に立っていることをお断りしておきたい。

「こんにちわ!」「こんばんわ!」にしても、その由来は朝昼晩という区分された時間帯
に深く結びついていなかったように思われるため、あくまでも対話者間で人間が持ってい
る感覚に適合するかしないかという要因が先に来るだろうから、日本語の挨拶言葉をここ
で分析するのはどうやら筋違いのようだ。

少なくとも、アメリカ人が深夜にグッモーニンと言うのを日本人が「おはよう」と真似し
てもおかしくないことは保証できるのだが、それをインドネシア語に変えて深夜に「スラ
マッパギ」と言うのは保証できないから、辞書に従って外国語を使うことは用心するべき
だろう。


ところで、一日のはじまりが深夜の24時=0時であるというカレンダーシステムの決ま
りを不思議に思ったひとは、決してわたしだけではないだろう。既述の通り、人間という
のは昼行性の生き物だった。太陽を一日という時間を測定する基準に使う人間が、一体ど
うして太陽のない夜中の、しかも時計なしでは容易に測ることのできない深夜0時を一日
の開始時間と定めたのだろうか?

太陽の動きに即して開始時間を定める際に基準にしやすいのは、夜明、日没、そして太陽
が頭上に来るときの三つだろう。その中で、夜明と日没は時間が大幅に変化するという不
安定さを持っている。比較的安定しているのは太陽が頭上に来るときだけだ。[ 続く ]