「アイデンティティ社会(4)」(2017年03月24日) インドネシアでSARAと呼ばれるアイデンティティ要素は、インドネシア人が持ってい る上のような特性に火をつけるために過去から策謀者たちによって頻繁に使われ続けて来 た爆薬だ。種族・宗教・人種・階層の頭字語であるSARAは更に広範な出身地域まで含 めたものに拡大し、それらの要素を異にする集団の間に対立と敵視をますますはびこらせ ている。 とは言っても、それが日常生活の中でのビヘイビアに恒久的な傾向を与えているのかとい うと、必ずしもそうなってはいない。日常生活でのメインストリームは、寛容と一体性を 踏まえた宥和的協調的なヒューマンコンタクトが営まれている姿が普通だ。 たとえばインドネシア人が引越し先を探すとき、10人中の8人はまず交通の便、自分の 経済力、その地域の犯罪や天災に対する安全性や町内の宥和あるい隣人に反社会的な人間 がいるかどうか、といった要素を検討する。地域のマジョリティ住民が自分と同じ宗教・ 種族・経済階層である場所を優先的に選択するひとは10人中のニ〜三人しかいない。 インドネシア人の10人中9人は、地域コミュニティ内の住民が異なるSARAの集合体 ではあるものの、社会生活においてはたいへん宥和的な暮らしが営まれていると認識して いる。更にその半数は、そんな傾向が強まっているとまで語っている。 しかしその一方で、インドネシア国民の間に宗教分野をメインにする他者排斥、いわゆる 不寛容が広まっており、それが地域コミュニティの社会生活に影響を及ぼすことを懸念す る声も高まっている。 どうしてそのような現象が強まっているのかという分析では、73%のひとがそれをイン ドネシア国民が自ら撒いているタネだと見ている。経済格差・教育クオリティ・法執行・ 政界上層部のエゴなどが国民の福祉生活向上を約束せず、政界エリートの腐敗の深化と合 わせて、国民の政治意欲離れを招き寄せているのが主原因であり、外国から入って来るイ ンドネシア固有文化の価値観にそぐわないビヘイビアの浸透がそれに油を注いている、と いうのが主な見解になっている。 アイデンティティというのはその本人が身の回りに持っている属性であるのが普通であり、 生活環境に強く支配される。加えて人間の属性が単一であることはありえず、複数の属性 がその人間のパーソナリティを形成している。だからアイデンティティシンボルの対立が 起こるとき、ひとは種々の属性の間で優先順位をつける必要に迫られる。たとえばある概 念のアイデンティティシンボルのコンフリクトが起こったとき、そこにからんでいる別要 素としてのアイデンティティシンボルがどうなっているのかが、その者の闘争意欲に影響 を及ぼすということなのだ。[ 続く ]