「深夜にスラマッパギ?(終)」(2017年03月27日) だからこの種の民は季節変動の影響を蒙らない生活習慣や生計手段に向かうようになった のだというものの見方は、バイアスまみれではないだろうか? 月という単位を使って測定しようがしまいが、季節変動は起るのである。だからかれらは 測定をせず、季節変動のサイクルを見つめながら生活しているのであって、違いがあるの はそこだけだ。月という単位を使わなくとも、人間は季節変動のサイクルを感知すること ができる。問題は、できるできないでなくて、便不便なのだ。 その低緯度地方の民が季節変動に対してあまり神経質にならずにサバイバルを行えたこと がきっと、ヒジュラ暦の歴史を支えたように思われる。更にはひょっとして、アンチクリ スチャニティもしくは太陽崇拝の否定というイデオロギー的要因のゆえに、太陽との関り を意図的に排除したためではないか、という推論も成り立つかもしれない。 ヒジュラ暦が確定されたのはヒジュラ暦17年(西暦638年)のことであり、その名の 通りムハンマッが行ったヒジュラの年を元年としている。細かく言うなら、ヒジュラ暦元 年ついたちは西暦の622年7月16日に当たる。ムハンマッがヒジュラを行ったのは6 22年9月であるが、かれらは単純にそのような決め方をしなかった。7月16日という のはヒジュラ暦確定時の計算で算出されたものであり、故事を正確に採り上げたわけでは ない。 それはともあれ、かれらムスリムにとって一日の始まりの部分は果たして「朝」と呼ばれ ているのだろうか?素朴なアラビア語辞典を調べて見たかぎりでは、朝を意味するサバあ るいはソバという言葉を使う挨拶言葉ソバアフルホイルが英語のgood morningに対応させ られている。いかに一日の開始が日没であっても、かれらにとっての朝は一日の最初の時 間帯でなく、夜明に関連する時間帯を指しているようにわたしには思われるのである。 以上のように、いくつかの言語で「朝」という言葉の語義を調べて見た結論としては、ヨ ーロッパ諸語に見られる「朝」とは一日の最初の時間帯であり、一日は深夜0時から始ま るものという定義によって夜中を「朝」として扱うという姿勢が東アジア・インドネシア ・中東のどこにも見られないことが明らかになった。 とはいえ、ことは意味論でなくてライフスタイルの問題なのだ。ライフスタイルが先鞭を つけて辞書の語義が変わっていく、ということはざらにあるものではあるまいか。 果たしてインドネシアでは、サッカー解説番組のキャスターに倣って、深夜0時を過ぎれ ばスラマッパギを言い出す人間が今後増えて行くだろうか?ご老体と呼ばれるひとたちが 築き上げて運用して来た真理や正誤規準が永遠でないことをわれわれは知っている。あら ゆる価値が容易に変化していく時代に、われわれは直面しているにちがいない。[ 完 ]