「アイデンティティ社会(終)」(2017年03月30日)

それらの百年前に起った諸現象が、現代世界が直面している政治生活におけるオブセッシ
ョンに結晶している。すなわち「回答不能」に対する度を超えた信仰の表明である宗教ラ
ディカリズム、出生地に対する過剰な愛の表明である過激ナショナリズム、社会ラディカ
リズムとも言える社会公正に対するラディカルな意思表示としてのコミュニズムというオ
ブセッションだ。百年の間にそれらの社会政治型病患は治癒されたのだろうか?答えは
「ノー」だ。それどころか、似たような問題がほぼ同一のさまざまな政治モンスターを輩
出させている。アメリカとロシアではトランプとプーチンが社会不公正を覆い隠すために
ウルトラナショナリズムを使っているし、アラブ諸国では社会不公正への回答に宗教が用
いられている。インドネシアはどうなのか?気を抜いてはならないのだ。

去る2月22日にオックスファムインドネシアがファンタスティックな数字を公表した。
インドネシア人トップリッチマン4人がかき集めた財産は、インドネシア人最貧困層1億
人の財産合計に匹敵するというのである。社会公正を謳った法規がどれだけ作られていよ
うが、その執行者はみんなお昼寝中だということだ。もちろんインドネシアには、国民の
間により公正な富の再分配を行うための制度も機関も存在していない。スリ・ムリヤニ氏
が構築しようとしている社会公正を目指す税制の整備はうまく進んでいない。

種族・宗教面におけるこの経済格差は鳥肌を立たせるものだ。ところがSARA問題に抵
触するのを怖れて、社会学者ばかりか一般メディアまでもがそれを取り上げようとしない。
その問題をざっくばらんに世の中に発言できるひとは、副大統領のユスフ・カラ氏のよう
な「つわもの」だけになっている。かれが最近行った発言の中に、「金持ちのほとんどは
儒教やキリスト教を信仰する華人系子孫から成っている。反対に貧困層の大部分はイスラ
ム教徒であり、キリスト教徒も少しいる。」というものがあった。「嫌なことを言う。」
と顔をしかめたくなくような話だ。とりわけ、かれがムスリム実業者であるということを
思えば、その発言は扇動的でもある。だが社会学的にその話は正確なものなのであり、決
して扇動のためのホウクスではない。

社会経済階層の違いと宗教アイデンティティの違いがマッチしているということが事実で
あるなら、経済コンフリクトは宗教コンフリクトと一体化してしまうことになる。宗教的
政治家で実業家でもあるユスフ・カラ氏だから認識できることだなどという逃げを打って
はならない。インドネシアに必要とされているのは、そういう社会問題を深く認識し、的
確・迅速・持続的な社会公正政策を打ち出して行ける政治家たちなのである。

この状況が続けば、せいぜい十年、長くて二十年後、インドネシア人は社会不公正や社会
的不満を訴えるツールとして宗教を使うようになるだろう。そのときに、イブン・サウド
一党の子孫やボルシェビキの子孫がインドネシアにとってのホラーの意義を思い起こすこ
とがないなどと、一体だれが断言できるだろうか?われわれは自分の目と心を開いておか
なければならないのだ。[ 完 ]