「太陰暦と太陽暦は互角か?(4)」(2017年04月10日)

太陽暦と太陰暦が対等に対立している概念でないというのは、一日という「とき」の長さ
を月に関連させては決めることができない事実が示しているとわたしは考える。一日とい
う単位を、例えば月の出から次の月の出までという定義付けにしたとき、たいていの一日
は24時間プラス数十分という長さになるが、月の地球公転周期である29.53日前後
という期間の中で、一日だけ月の出のない日が存在する。つまり48時間プラス数十分と
いう一日が混じるために、実用面から見て大きな障害となるのは明らかだ。おまけに、そ
の長い一日に太陽は二回現れ、人間の活動は二回行われるのである。

それが現実性に欠けているのは、太陰暦の代表とされているイスラム暦を使う諸国でも、
一日というのは太陽の動きによって決められた24時間が使われていることがすべてを物
語っているのではあるまいか?

つまり、太陰暦とは言うものの[ 日⇒月⇒年 ]という暦サイクルの中で、「日」は太陽暦
に由来する単位が使われているのであり、言い換えれば、全体的な暦サイクルの中の[ 月
⇒年 ]という部分だけが対等のウエイトで対立しているということになるのである。

月のサイクルで一年を決めるということを行えば、月の12回のサイクルで作られる一年
は太陽による一年より11〜12日短いものになり、16年間で太陽暦とおよそ半年ほど
の差が付いてくる。それでは暦を目途にして「そろそろ何の季節に入りそうだぞ」という
認識を人間の生活共同体が持つことは不可能になるのではないだろうか?


たとえば太陰暦の代表と見られているヒジュラ暦ではひと月が12回繰り返されると35
4日となり、太陽暦との間に11日の差が生じる。17年後には187日という日数が累
積されて、両者の間に半年以上の違いが発生する。これは冬と夏が逆転することを意味し
ており、人間の生存とそのための活動は混乱に直面するというわけだ。もちろん、一年中
ほとんど寒暖の差がない季節が継続する低緯度地方では、そういう生存に関わる問題はそ
こに生じない。とはいえそんな地方のひとびとも、実質的には太陽の運行に従って生じる
季節変動に即して生活しているわけで、決して太陰暦を基準にして生きているわけではな
い。

つまり、○○月になったから、放牧してあるヤギをあちらの山に移そうというものの見方
でなく、あちらの山の頂きが白から緑に変って来たからヤギをあちらに移すだけのことで
あり、あるいは雨の多い時期に変わって来たので海が荒れるから漁民が沖に出るのを減ら
そうとするだけのことであって、そのような兆候を見出したのが今回はXX月であったと
いうだけの話なのである。[ 続く ]