「孤児民族(1)」(2017年04月10)

ライター: ジャマアマイヤ指導者、文化人、ムハンマッ・アイヌン・ナジブ
ソース: 2017年1月19日付けコンパス紙 "Bangsa Yatim Piatu"

インドネシア民族は間もなく兄弟である同じ構成員間の抗争エスカレーションのひとつの
ピークに到達するだろう。その結果の中には少なくとも憎悪や怨恨、そして将来もっと深
い抗争をもたらす敵視といったものの蓄積がある。最大となると、考えるだけでもゾッと
する。われわれは今、われわれの子孫の将来に災厄をもたらす地雷を増やして埋めている
のだ。

相争っている者たちは、自分の側からだけ見た正義を確信している。あっちが悪いこっち
が悪い、と語って問題や地雷を増やす者などいなくて良いのだ。少なくともここしばらく
は、「誰が悪い」と言って非難する快楽を避けるのが賢明だ。というのは、正誤を主観に
置けば、土俵の上は「誰に味方するのか」ということがらだけになり、すべてが主観の世
界に滑り込んでいく。両者の一方に味方するのはその者が100パーセント正しいからで
あり、味方しないのはその者が100パーセント悪いからだ。われわれは成熟した精神か
らはるかに遠い所にいる。

その産物として、われわれはふたつのことがらに問題を抱えることになる。ひとつは、わ
れわれの子孫は「正義と正義」「善と善」の対決という歴史に戸惑うことになるというこ
と。もうひとつは、われわれの人間性の本質部分にある「あらやる人間やものごとには、
正しい部分があり、悪い部分がある」という真理に逆らっているのだ。完璧な正もなけれ
ば、絶対の悪もないのだ。

苦いし不愉快でもあろうが、今なされなければならないことは「誰が悪い」という議論で
なく、同じテーブルに着いて「何が悪い」のかを純心に探し出すことだ。そのためにはお
互いに主観的な自尊心を犠牲にしなければなるまい。インドネシアの歴史を保全するため
には、お互いに自分の間違いと他人の正しさを認め合う、正直さ・純心さ・ヒロイズムが
必要とされているのだから。

< NKRI型の思考・姿勢・行動 >
わたしが「抗争エスカレーションのピーク」と述べた意味は、強者が弱者を倒すステージ
上のシーンが間もなく出現するだろうということだ。誰かが法廷で、あるいは選挙で勝利
するだろう。それ以前に、その勝利に対する非生産的と見られる諸要素が、水をかけられ、
逮捕され、留置され、解散させられ、口枷をはめられ、去勢されるかもしれない。少なく
とも軽減されるのかも。

起るのは小さい諍いの噴出でしかないかもしれない。しかしそれは、将来起こるであろう、
より大きい抗争の水面下に潜った導火線なのだ。湧いてくる疑問は、「インドネシア人が
インドネシア人を負かして、いったい何が凄いというのか」?われわれの世間に勝者と敗
者が必ず出現するものであるにせよ、同じインドネシア民族を構成する者の間でも、それ
が適用されなければならないのだろうか?ビンネカとはそれを意味しているのだろうか?
ジャワ哲学をひもとけば、今起こっているのは「sopo siro sopo ingsun」(お前はだれ
だ、わしはだれだ?おまえは何者だと言うのか?)である。そこから導かれるもののひと
つが「adigang adigung adiguna」(お前はエラそうな奴だ。わしが踏みつぶしてやる!)
である。[ 続く ]