「孤児民族(2)」(2017年04月11日)

ディコトミー風タイプで言うなら、「カビルのハビル殺害」だ。白黒で言えば、白が黒を
踏みつぶす。問題は、それぞれが言い分を持ち、それを確信していることだ。かれはハビ
ルであり、カビルの脅威を前にして先にカビルに口枷をはめようとする。かれは白なので
あり、黒の反逆を受けていると感じているため、黒を早急に討伐しなければならない。一
方で、討伐される者も「自分はハビルに殺されるカビル」であり、黒に口枷をはめられる
白だと確信している。父アダムはどこだ?母ハワはどこだ?ハビルもカビルも自分の息子
たちなのだ。カビルが別の子供を脅かしているとはいえ、アダムもハワもカビルを敵だと
は考えていない。脅かしている者も脅かされている者も、どちらも自分の子供なのである。
アダムもハワも、辛抱強く子供たち交わる。ハビルが殺されないようにするためにどうす
ればよいのかを探求する。選びだされた方法はカビルがハビルを殺す前にカビルを殺すと
いうものではなかった。アダムの立場は、NKRI(インドネシア統一国家)型の思考と
姿勢以外の何者でもない。

< 比類なき孤児 >
インドネシア民族は孤児である。畏敬すべき父親もなければ、愛すべき母もいない。ふた
つの術語を使って、その意味を説明したい。

誕生した当初、NKRIは「新しい何かを生み出す」ことをより強く考え、「それまであ
ったものを継続する」ことをあまり考えなかった。われわれは「採用する歴史」を選択し、
「維持継続する歴史」を営む必要はないと考えた。われわれは原理・運営機構・価値シス
テム・ビューロクラシー・法を採用して国と共和国を建設した。われわれは確実な所有権
の移管と共に、オランダマシーンの稼働を続けた。われわれはわれわれの祖先が培ったも
のの創造的継続となる民族独自のオーセンティックなフォーミュラの可能性を追求しなか
った。独立以来われわれはあたかも、自分の親を故意に置き去りにしたかのようだ。とこ
ろがオランダ自身、そして他のヨーロッパ諸国も同様に、かれらの親である王国の歴史を
踏まえているのである。その原理をわれわれは採用しなかったのだ。

同じように、たとえばマジャパヒッを学ぶことをしなかった。クンチャナウグ(Kencana-
wungu)やその後のハヤム・ウルッ(Hayam Wuruk)は国家元首であり、ガジャ・マダ(Gajah
Mada)は首相である。国家元首は政策や監督システムを作り、首相が国家管理の執行者に
位置付けられる。いま、われわれの政府のトップは国家元首でもある。憲法裁判所・法曹
コミッション・汚職撲滅コミッション等々は国家機関であるが、実態は政府の一機関にな
っている。インドネシア民族は国家と政府を区別する必要があると思っていないからだ。

国家は父であり、国土が母である。国は一家一族であり、政府は家庭だ。家庭経営は一家
一族の経営の一部である。国家公務員は国法に服従する国家のしもべであり、上位者に服
従する政府のしもべではない、という意識に変化していない。自分は父親のものであり、
また母親に支配されていると子供が感じていれば、現在と将来にわたってNKRIを不安
に陥れる疑問が大量に出現する。

畏敬する父親がおらず愛する母親のいない子供たちは今、喧嘩を楽しんでいる。われわれ
の家族は脆くなっており、隣人たちは狙いを着け、潜入し、領土と精神の中に入り込み、
われわれの所有権を蝕んでかれらのものに変えようとしている。[ 続く ]