「孤児民族(終)」(2017年04月12日)

次に、インドネシア民族の中のジャワ人の父母はsandang pangan papan, keris pedang 
cangkul, gundul pacul, kawula gusti等々のメッセージを与え、スンダ・ミナン・ブギ
ス・バタッ・ササッ・マドゥラなどその他数百種族の祖先もきっと同じことをしたという
のに、独立以後われわれはそれを二次的なものにしてしまい、それどころかそれらを軽視
し、忘れ去っている。民族精神という次元における、あるいは共同運営するシステム構成
や憲法や法規の実践において、われわれが先祖伝来のものを失ってしまった理由がそれな
のだ。

< 未知なるもの >
この論説の最初に書いた「抗争エスカレーションのピーク」というのは、国家の名前で行
為する政府がing ngarsa sung kuwarsaであるということだ。つまり支配するための権力
と打ち負かすためのパワーを持って最前線に立っているということである。人間の立場は
ngawulaつまりしもべになる。それゆえにパンチャシラの第一項はKetuhanan Yang Maha 
Esaとなり、全国民が神のしもべとなることを誓うのである。王国時代の文明においては、
王は神の代理者と信じられた。だからkawula(民)は神のしもべとなるように、王のしも
べになった。

インドネシア民族は従順なアッラーのしもべである。王や大統領を通して神に仕えること
を決める関連性・弁別プロセス・資格などは、誤る可能性があるが、それは別の問題だ。
そしてそれは正誤の問題でなくて善悪問題なのである。ただ明らかに、計算し直し、考え
直す必要のあることがらが存在する。インドネシア民族の心身の健全さを運営するための
フォーミュラに関することがらだ。

将来の安全を必要としているわれわれは、見方・視点・方向・距離や明視度ばかりか、あ
らゆるハードとソフトを有するNKRIに対する賢明な視点をも問い直す。ビンネカはト
ゥンガルイカされなければならない。ビンネカの中で敵対関係が先鋭化しないようにしな
ければならないのである。

短期的に、わたし個人としては、日常的な表現を使うことをお許し願いたい。あなたが神
との間に問題を抱えた場合ということだ。もし汝が神を自分の人生の第一主体者の位置に
据えるのを怠った場合、汝の人生が災厄に見舞われなかったならば幸運だ。しかしNKR
Iをそのように扱ったなら、災厄は避けることができないのである。

汝は容易に諸機関を賂し、市民団体を征服して、NKRI運営者を支配下に置くことがで
きる。しかしインドネシア政府とインドネシア民族は別物であり、インドネシア民族とイ
ンドネシア民衆は別物であり、インドネシア民衆とこの祖国に住む神のしもべたちはまた
別物なのだ。ナフダトウルウラマはナフダトウリインと別物なのである。ムハマディヤは
ムハマディインと別物なのだ。たくさんのイスラム市民団体はムスリム一般大衆と別物で
あり、ムスリム一般大衆とイスラムそのものとはまた別物なのだ。

汝が打ち負かし、征服し、強奪し、抑圧し、侮蔑することができるものは何なのか、そし
てできないものは?汝が征服できないものは次元とエネルギーなのであり、それは宇宙に
あまねく存在し、そしてこのインドネシアと呼ばれる土地にも存在している。明朝に関し
て、われわれがまったく知らないものが存在するのである。[ 完 ]