「マカッサル船団はマレゲを目指す(1)」(2017年04月25日) オーストラリア大陸北部のカーペンタリア湾を測量していたマシュー・フリンダース船長 は、見慣れない船型の6隻の船団を目撃したことを1803年2月17日の航海日誌に記 録した。 それは南スラウェシのマカッサルからオーストラリア北岸部にやってくるマカッサル人の フィニシ船だった。 1770年にジェームズ・クックがオーストラリアの南部東岸をイギリス領に宣言したと き、オーストラリア北部海岸ではマカッサルの船団がアボリジニと緊密な文化経済関係を はるか昔から築いていたのである。 クック探検隊も、オーストラリアの北部海岸にはセレベスのマカッサン船団が多数ナマコ 漁に訪れていることを報告している。 1828〜29年にも、ラッフルズ湾で動き回っている34隻のマカッサル船が記録され た。かれらがマカッサルを根拠地にする船団で、そこへはナマコを集めにやってきている のだという内容が報告されている。 マッカーサー河口にいたオーストラリア機船パルマーストン号はナマコ漁をしているマカ ッサル帆船を目撃した。その船は自然の影響から遮蔽されている海岸部を選んで動いてい る。 パルマーストン号のクルーは帆船とコンタクトし、マカッサル人の航海の実態を知って開 いた口が閉まらなかった。ほんのわずかな航行機器だけを持ち、陸地と海域についての知 識はほとんどなく、船長の勘と技術だけに頼って1千2百海里ほどもある遠洋航海を果た してきているのだから。 その航路が開かれたのは16世紀のことだろうと推測されている。マカッサルを出たフィ ニシ船は南西に針路をとってスラウェシの陸地沿いに進んでから南下し、スラヤル (Selayar)島からタナジャンペア(Tanah Jampea)島を経たあと東南のティモール(Timor)島 に向かう。最後にティモール島北東端に上陸して水や竹や籐などの資材を積み込み、かれ らがマレゲ(Marege')と名付けたカーペンタリア湾西側のゴーヴ(Gove)半島突端部を目指 したのだ。 もちろん、ダーウィンへ向かう別のルートもあった。スラヤル島からウェタル(Wetar)島 に向かい、キサル(Kisar)島、レティ(Leti)島、モア(Moa)島などをたどってから、舳先を 南南東に向けてダーウィンに至るというルートだ。[ 続く ]