「マカッサル船団はマレゲを目指す(2)」(2017年04月26日)

スラウェシ島南部の主要な種族はブギス族・マカッサル族・マンダル族・トラジャ族など
で、かれらはたくさんの小王国に分裂しており、ブギス族はボネ、ワジョ、サウィット、
スッパ、ソッペン、ルウなどの小王国を、マカッサル族はゴワとタロの王国を設けた。
1528年、ゴワ王国の明主カラエン・トウマパリシ・カロナがタロ王国を支配下に置い
て強力なマカッサルスルタン国を樹立したとき、スラウェシ島を中心とする一大勢力が形
成される礎が築かれることになった。

その最盛期の版図はスラウェシ島全域と周辺の島々を中心にカリマンタン島東岸部のキナ
バタガン(Kinabatangan)からプラウラウッ(Pulau Laut)にかけて、今の西ヌサトゥンガラ
州ロンボッ島からマルク地方全域、そして南はゴーヴ半島からダンピア(Dampier)半島ま
でのオーストラリア大陸北中央海岸部一帯にまで広がった。


マジャパヒッ(Majapahit)王国もそうであったように、インドネシアの場合、この種の広
域大王国というのは支配下に置いた諸王国諸地域が宗主権を認め、貢納を行い、連合軍事
行動を分担し、宗主国からの政治支配に服従するといった緩い主従関係が普通で、西洋人
が後に行った植民地支配というスタイルにはならなかったから、マカッサルの宗主権を認
めた諸王国も、自国の政治経済政策は伝統的なものを続けることが普通だったようだ。
だから宗主国の勢力が衰えれば属国はすぐに自主独立路線に切り替えたし、あるいは叛乱
も容易に起こすことができた。


中でも文明化の遅れているアボリジニだけが住んでいるオーストラリア北中央部はそこを
支配していた国家体制があったわけではなく、マカッサルスルタン国の船が交易のために
やってくるだけの地域であり、スルタン国がそこに国家体制を建設させたわけでもない。
それはあくまでも、マレゲの地域までもがわが支配権の下にあるのだというマカッサル王
家の主張にすぎなかったにちがいない。

ただし、アボリジニたちはその関係が自分たちに利益をもたらすものであることを実感し
てマカッサルスルタン国に服従する姿勢を取ったということは言えるだろう。


マカッサル空港にその名をとどめているスルタン・ハサヌディン(Sultan Hasanuddin)の
父親、スルタン・ムハンマッ・サイッ(Sultan Muhammad Said) の1639年から165
3年までの治世のとき、スルタン自身がマレゲの地を毎年訪れたという記録が残されてい
るが、少なくとも一度はアボリジニの土地を訪問して自己の支配権の実態をその目で見た
のではあるまいか。[ 続く ]