「マカッサル船団はマレゲを目指す(3)」(2017年04月27日)

マカッサルスルタン国が一大版図を支配下に置いたとは言っても、お膝元のスラウェシ南
部にあったブギス人のボネ王国には手を焼いていた。ゴワ王国が勢力を強めてスラウェシ
南部の諸王国を斬り従えて行く状況をボネの王族たちは不安と反感で見守った。

ボネがストレートにゴワの支配に服したわけではない。ボネ宮廷はゴワとの全面対決を避
けたが、王族の一人アルンパラカはゴワの支配から脱するために叛乱を起こした。もちろ
ん王国の方針となったゴワへの服従に反対する面従腹背貴族層が表立って反抗するアルン
パラカをバックアップしたのは言うまでもあるまい。

ゴワ王国軍とアルンパラカの叛乱軍の間で戦争は何度も繰り返された。
中でも1660年の戦争は大規模なもので、ボネ王国軍がアルンパラカに従って軍事行動
を起こしたが、ボネ王国軍司令官は戦死し、アルンパラカ率いる部隊も窮地に陥った。し
かしアルンパラカは九死に一生を得て脱出に成功し、一旦潜伏した後、4千人の兵力を集
めて再起したものの、マカッサルの軍勢を打ち破ることはできなかった。


ゴワがアルンパラカの首に賞金をかけるのも当然だ。アルンパラカはボネを去って密かに
ブトンのスルタンを頼り、3ヵ月ほどブトンに滞在してからバタヴィアに向かった。VO
Cと組んでゴワが樹立したマカッサルスルタン国を倒そうというのだ。ゴワはブギス族の
ワジョ王国と組んで1666年にVOCに支援されたボネ王国軍と対決し、そして敗れた。
1667年にはマカッサルの軍船団とVOC船隊の間で海戦が行われ、マカッサルの軍船
団は壊滅した。スルタン・ハサヌディンが敗軍の将となった。

VOCが東インドの強力な諸王国を支配下に置くとき、このような現地側の対立構図が頻
繁に利用された。VOCはゴワのボネに対する宗主権を放棄させ、ボネ王国を独立国とし
て扱う形をとりながらも、その心臓部をがっちりと握り、スラウェシ南部の諸王国に対す
るVOCの政策遂行に当たって、その駒として使った。ボネ王と言えば、その地域では権
勢家であり、小王国には十分に睨みが効いたから、VOCにとっては利用し甲斐のある駒
だったにちがいない。

一方、敗れたゴワとワジョはVOCの宗主権を認めて服属することを強いられたものの、
VOC自体に服属国を現地で監督するための人数が不足していたため、その後も叛乱は何
度も繰り返された。そのためスルタン・ハサヌディンは民族英雄に祭り上げられている。
[ 続く ]