「マカッサル船団はマレゲを目指す(4)」(2017年04月28日)

VOCは1607年にマカッサルに商館を開いて、インドネシア東部地域の物資集散地の
ひとつであるマカッサルでの物資調達を行っていたが、クローブの通商センターのひとつ
であるマカッサルでクローブのビジネスを牛耳ることが究極目標だった。東インド諸島に
おけるクローブ通商の独占をもくろむVOCは、マカッサルの主であるゴワ王国をスルタ
ン・ハサヌディンの代になってやっと軍事力で打倒し、マカッサルでのクローブ売買を禁
止したのである。マカッサル人はクローブに代わる経済性の高い商品を探さざるを得なく
なった。

マカッサルをはじめとするスラウェシ島南海岸部は元々、そこを中心とする諸地域に産す
る物資の集散地として発展してきた。海上輸送と通商という分野でその地域のひとびとの
能力が他地方の群を抜くものとなったのは、ブギスやマカッサルの船舶航海、そしてブギ
ス商人やマカッサル商人と呼ばれて一目置かれた伝統がそのことを証明している。

ブギス商人はその巧みなビジネス感覚によって、いくつかの地方では「黒い中国商人」と
呼ばれている。加えて操船と航海能力に長けていることが、かれらをしてあらゆる土地に
向かわせる駆動力となった。


当時、ナマコはアジア大陸で高額商品だった。ナマコは波静かな浅い海ならどこにでも棲
息しているものの、大型で品質の優れた品はなかなか入手できない。

条件の良い海を探して、そこに棲息するナマコが成長するのを待ち、時期が来たら収穫す
るという、一種の養殖活動が東南アジアで進められた。オーストラリア北部海岸地域は特
にその条件に合致していたということだろう。

ブギス商人やマカッサル商人はスラウェシ島南部海岸、スラヤル、ブトン、スンバワ、テ
ィモール、スルマタ、タニンバル、ケイ、アル、ラジャアンパッ、そしてマレゲからナマ
コを仕入れてマカッサルの市で売った。中国船がやってきたし、他地方の商人もやってき
た。


1803年にナマコビジネスの調査を行ったフリンダースは、カーペンタリア湾にやって
くるマカッサル帆船の運搬能力は100ピクル(6トン)で、マカッサル人はナマコビジ
ネスの大家であり、かれらは最高級のマレゲナマコを取り扱っている、と書いた。もっと
も高価なバトゥ(batu)ナマコは価格が40ダラー/ピクルで、コロ(koro)ナマコはその半
額だ。

クロフォードは1820年のマレゲナマコが19ダラー/ピクルだと記録し、1839年
にヴォスマンは14〜16ダラー/ピクルと書いている。

またマカッサル船の運搬能力は向上を続け、1884〜85年には145ピクル(8.5
トン)、1887〜88年には386ピクル(22.7トン)まで増えている。[ 続く ]