「再び、レープは普通で当たり前のもの(後)」(2017年04月28日)

Aは近くのティアラ病院救急治療室にNを運び込む。自分はNのパチャルだと名乗るAの
アルコール臭い息やNの様子、そしてAの挙動が病院職員の不審を招いた。

Nを置いて立ち去る機会が来るのを伺っていたAの前に捜査員が立った。そのときNは既
に死亡していたのだ。ブカシメトロ警察チカラン署の捜査員は病院でAに簡単な尋問を行
い、Aが洗いざらい自供したことからチカラン署に護送して取調を行った。こうして事件
の全貌が明らかになったのである。


女とは男の性欲充足の対象物なのであり、ガードする男がそこにいないということはその
女の肉体が公開されていると見なす考え方がどうやら一部の社会でいまだに生き残ってい
るようだ。その原理は女が男の所有物であるという観念をベースに置いたものであり、所
有を主張する人間がいない物はだれがそれを自分のものにしてもかまわないという所有権
に関する思想にも関わっているとわたしは考える。

路傍にコロがっている女がいて、その所有を主張する男がそこにいないのであれば、その
女を自分のものにすることに何の問題があろうか?男が女を自分のものにする目的は、た
いていの場合性欲充足がまず筆頭に置かれるだろう。前途洋々の精力有り余るまだ若い男
が、自分の子孫をまず作ろうなどと本当に考えるのだろうか?有り余る性欲のはけ口を求
める方が先なのではあるまいか?

こうして路傍に転がっている女を自分の性欲充足のための道具にしようとする行動が開始
される。もし女が嫌がれば、力ずくででも目的を達成するのが男というものだ。だからレ
イプは普通でありふれたことになるのである。

先述のバリ島の奥さんの話にしても、そして少女Nの事件にしても、その種の男にとって
その目的を達成する恰好のシチュエーションがそこに出現しているにちがいない。日本で
も昔言われていたように「据え膳食わぬは・・・」と同じ発想がそこに存在しているよう
にわたしには感じられる。


そのような男性の思考の流れの中に、女性が独立した一個の人間であるという観念は微塵
も存在していない。女の肉体(つまり女の性)のモノ化は有史以来の人類の基本観念を形
成して来たもののひとつだろうし、その基本的人間観がジェンダー対等思想によって塗り
替えられる日がいつかやってくるというオプティミズムをわたしはなかなか受入れられな
いでいる。

というのも、基本的人間観のベーシックな部分にセックスが置かれていることによって、
その部分の対等・同等思想がどのような形に発現するのかがまだ見えていないからだ。ジ
ェンダー対等コンセプトがその部分にはっきりした回答をもたらさないかぎり、たくさん
の男たちはジェンダー対等の本質的な実践にたどり着けないように、わたしには思われる
のである。[ 完 ]