「マカッサル船団はマレゲを目指す(5)」(2017年05月05日)

イギリスの人類学者デーヴィッド・マクナイトはマングライの民間伝承を次のように記録
した。

1667年にオランダとマカッサルの海戦が起こり、オランダ船隊の砲撃でマカッサルの
船が次々と沈められる中で、マカッサルの帆船が何隻か戦場から逃れてカーペンタリア湾
に隠れた。かれらはしばらくそのマレゲと呼んでいるオーストラリア北部地方に滞在し、
上陸した土地に各船の船主の名前をつけた。

海の藻屑となったはずの数隻の船が戦争のほとぼりの冷めたころにマカッサルに戻って来
たのを見て、地元民の驚きはいかばかりだったろうか。おまけに、船にはナマコがたっぷ
り積まれていたのだから。

マクナイトはこの口伝が史実を伝えているものと見た。1667年の戦争の結果、VOC
がマカッサルのスパイス通商を禁止してVOCの独占事業にしたのである。商権を奪われ
たマカッサルにはスパイスに代わる商品が必要になる。

17世紀はじめごろから東インドの島々には毎年、中国船が諸港にナマコを求めてやって
くるようになった。ナマコの需要が高まって、ナマコは高額商品のひとつになっていたの
である。


1667年を境にして、マカッサルではナマコビジネスに力が入ったにちがいない。それ
までもナマコビジネスは存在していただろうが、奪われたクローブビジネスをこれで取り
戻さなければならないのだから。

こうしてマレゲに向かうマカッサル船団の規模が変化していったと思われる。古い時期の
マレゲ航海との間にどれほどの差異が出て来たのかは、明瞭な記録がない。


古い時期のマレゲ航海はナマコよりも他の商品が先に目に付いたようだ。そのひとつは亀
甲だ。

アボリジニは亀の肉を食べるが、亀甲は捨てていた。マカッサル人がナマコに意識の焦点
を向ける前は、亀甲の方に目が行っていたようだ。

木材もマカッサル人の需要を満たすものになった。マカッサル人はアボリジニから木材を
求め、乗って来た帆船の修理や船着き場の設営にそれを使った。


帆船の時代の航海は風次第だ。インドネシアからオーストラリアにかけての海域では、モ
ンスーンの東風と西風の時期が一年を半分ずつに分けている。西風に乗ってやってきたマ
カッサル船団は、東風の時期までマレゲやカユジャワ(Kayu Jawa = キンバリー海岸)に
滞在するのである。

百人くらいのマカッサン(アボリジニはマカッサルをそう発音した)がやってきたと言う
から、マレゲやカユジャワにはマカッサル村ができていたに違いない。村には船着き場が
必要になるから、マカッサンはその地にある木材を勝手に切り倒したりせず、アボリジニ
から買ったようだ。[ 続く ]