「マカッサル船団はマレゲを目指す(6)」(2017年05月06日)

17世紀半ばごろ、毎年マカッサル人やブギス人は30隻から60隻という大船団を組ん
でマカッサルからオーストラリア大陸北海岸部へ向かった。帆船の大型のものは30人が
乗れる規模だったようだ。1907年まで続いたその航海の主目的はナマコ漁だ。

このオーストラリア北部海域にナマコ漁にやってきたのはマカッサル人だけでなく、ティ
モールからもやってきたし、ヨーロッパ人も来ていたという報告もある。


東インド諸島原住民がはるか南方に航海して、土着の者たちが住む地域の海でナマコ漁を
行っている情報をVOCが手に入れたのは1750年代だった。

ティモールのオランダ人レシデンが1751年に東インド総督に宛てた報告書には、ティ
モールの商人たちはずっと南方の土地へ航海していることが書かれている。

そしてVOC本社からの問い合わせに対して東インド総督は1757年10月15日付け
返信で、「ティモール東南方にある地方へは、マカッサルからも、ティモールからも、頻
繁に航海が行われている。当方が知っているかぎりでは、その地方で産するものはナマコ
だけである。1705年に実施した航海報告書を再度貴殿宛てに提出する。また、マカッ
サルとティモールにはもっと詳細な情報を要請する。」と回答している。


マカッサルとティモールからの報告を得たバタヴィアの総督は、再びその地方(オースト
ラリア北部)への調査航海を命じた。しかしオランダ船はどうやら、マカッサル人がマレ
ゲと呼んだアーンヘムランド(現在のゴーヴ地方)ではない別の場所を訪れたようだ。しか
もオランダ船のその地方への航海は数回行われただけで、長続きしなかった。


スラウェシ島北方のスールー海域でのイギリスの通商拡大の可能性を調査したアレクサン
ダー・ダルリンプルは1760年に、「ブギス人はニューホランドが黄金の産地だと述べ
た。ブギス人はイスラム教徒であり、通商を好む。」と書き残している。

ところが、イスラム教徒のマカッサンたちは宗教を含む文化の強制をアボリジニに対して
まったく行わなかった。ましてや、アボリジニを征服して土地を奪うようなことは、白人
がやってきてから始まったことだったのである。

アボリジニは白人のことをバランダと呼ぶ。白人はまずオランダ人であるというオランダ
領東インドのマカッサンであればこそ、かれらが白人をブランダと呼んだのに倣ってアボ
リジニもそう呼んだにちがいない。[ 続く ]