「マカッサル船団はマレゲを目指す(終)」(2017年05月12日)

アボリジニは代々、巨石や石の壁あるいは洞窟の壁に絵を描いている。年代分析によれば、
もっとも古いのは1万5千年前のもので、もっとも新しいのは50年くらい前らしい。

アーンヘムランドのあちこちに散在する数千ものそのような絵の中には、今では絶滅して
しまったオーストラリアの動物・第二次大戦期の兵隊の姿・自転車・自動車・飛行機など
さまざまな時代のものがあり、その中にマカッサルの伝統家屋・フィニシ船・樹上にサル
のいる風景など、マカッサルへ行かなければ見ることのできないものすら混じっているの
である。

つまりマカッサンは帰国するときにアボリジニを何人か誘って故郷に帰り、次のマレゲ航
海の時期までマカッサルに滞在させたことがその事実から推定される。マカッサル人がア
ボリジニをいかに友好的に処遇していたことを示す実例のひとつとそれを見ることができ
るのである。


未開人に対する先進民族の文明化の試みは歴史の中に連綿と登場して来るが、このマカッ
サンとアボリジニの関係は一般的に見られる形態から大きくはずれている。それがいった
い何に由来していたのかは、更なる研究を待たなければならないだろう。


そんなマカッサンとアボリジニの関係は1907年に閉じられてしまった。
20世紀はじめからオーストラリア政府が領海内における外国人の海産物採集活動への課
税を決めたため、マカッサンのフィニシ船も帰国前にダーウィンに寄港して採集したナマ
コの税金を納めなければならなくなったのだ。

中国でも、国内の動乱のためにナマコ需要が激減した。東南アジア一円ではナマコが大暴
落を始める。商品の価値の低下と経費の増加を無視する事業者はいない。マレゲを訪れる
マカッサンの船は見る見るうちに減少して行った。


経済力の源泉であり、また文化の先達だったマカッサンが、何百年も培われた交流を打ち
捨てようとしている。アーンヘムランドのヨルグ族の間に恐慌が湧き起った。

数が激減したマカッサンの最後の一隻が1907年にマレゲの海岸を去り、そして地元民
の見慣れていたフィニシ船の姿は二度と見られなくなった。

そのとき出帆した最後の船のウシン・ダエン・ランカ船長は見送りに来たヨルグの長老た
ちに対して、「自分たちが戻って来ることは多分、もうないだろう。」と語った。

それを聞いてヨルグ族の長老や指導者たちはみんな涙を流した。そのときの、胸の張り裂
けんばかりの悲痛な情景を物語るアボリジニがいまだにいる。数代前の先祖が語ったその
話が子孫の間にまだ伝承されているのだ。
「マカッサンとヨルグが合法的に結んだ合意を反故にできるどんな権限がバランダたちに
あるのか?」とその子孫たちは疑念を抱え続けている。

ヨルグ族はその変化を受け入れることができなかった。「マカッサンまで行って、かれら
を呼び戻すのだ。」一群のひとびとがその決意を抱いて海に乘り出した。
しかし、かれら自身が戻って来ることも二度となかった。[ 完 ]