「機能語が意味を変化させる?」(2017年05月12日)

ライター: 言語教育修士、ムリヨ・スニョト
ソース: 2012年6月8日付けコンパス紙 "Partikel Pembeda Makna?"

「belajar bahasa」という語句と「belajar tentang bahasa」という語句は意味が異なる
という見解を持つひとに出会ったのは、一度や二度ではない。かれらは前者の意味を
「belajar praktik berbahasa」と考え、後者の意味は「belajar ilmu bahasa」と見なし
ている。「わが国の生徒たちが8年以上も英語学習に取り組みながら、英語会話に上達し
ないのはどうしてか?」ということに関する説明をシンプルにしようとして、上のような
定義付けがよく用いられている。「Habis, mereka bukannya belajar bahasa Inggris, 
tapi belajar tentang bahasa Inggris.」と接続詞tentangにエキストラの意味を与えて
いるひとびとは語る。

その種の意味付けは明らかに、パーティクルというのは語義を持つ単語でなく、文法的な
機能だけを果たす単語なのだという言語学上の理解を無にするものだ。すなわち、パーテ
ィクルはそれ自身が意味を持っておらず(それをempty wordと称した者さえある)、単語
間・単語と句・単語と文・句と句、句と文、文と文等々の関係を明示して句や文の文法構
造を設けさせる機能だけを持つものなのである。

対照的なその二つの見解を前にして、わたしは保守的なほうを支持する。言語学上のビヘ
イビアにおいてパーティクルは語義を有するには不十分なものであるのだと。これが上の
二つの語句の差異を受容するかどうかについての山のような議論への回答だ。


「belajar bahasa」と「belajar tentang bahasa」は、形は異なるが意味は同じだとわた
しは考える。前者のbelajarはmempelajariと同じ他動詞であり、後者のbelajarは自動詞
だ。このポイントもやはり「belajar ilmu bahasa」と「belajar tentang ilmu bahasa」
や「belajar berkomunikasi dalam bahasa Inggris」と「belajar tentang berkomunikasi
dalam bahasa Inggris」が同一の意味であることを示している。

意味論の分野での本質的で不可欠な差異はパーティクルの有無に置かれているのでなく、
名詞や動詞の語義の選択における差異にあることがほぼ確定している。たとえば
「menulis prosa」と「mengarang prosa」(動詞の違い)や「belajar astronomi」と
「belajar astrologi」(名詞の違い)というように。


パーティクルに語義を与えるひとたちは、「belajar filsafat」と「belajar tentang 
filsafat」のふたつの語句の違いをどのように説明するのだろうか?わたしには想像もつ
かない。前者を「belajar mempraktikkan ajaran filosofis dalam perilaku keseharian」
、後者を「belajar filsafat sebagai disiplin akademis」と意味付けるのだろうか?だ
ったら「belajar sastra Perancis」と「belajar tentang sastra Perancis」は?前者は
「belajar menulis novel seperti cara Gustav Flaubert mencipta Madame Bovery」で、
後者は「belajar sastra Perancis sebagai telaah ilmuah」だとでも・・・?

そんな区別は無理やりにでっち上げたものとしか思えない。でもまあ仕方のないことだ。
学術的でないにせよ、確信させる説明だとして大勢が受け入れているかもしれないのだか
ら。言葉の世界の原則は正誤でなくて受け入れられるかどうかという点にあることを忘れ
てはならない。

本当は、エクストラの意味を与えたりしなくとも、接続詞tentangがそこに使われたこと
自体に、文章構成におけるたいへんな役割が出現しているのである。そのたいへんな役割
をわたしが感じたのは、5年ほど前の2007年8月21日付けコンパス紙で「Mahasiswa
Diingatkan Toleransi」という記事タイトルを読んだときのことだ。稀有の出来事、理性
の外、「寛容さが大学生に警告した」のだから。機能語のtentangあるいはその類義語がそ
のタイトルには不可欠なのである。だから、それが必要な時にその存在を忘れてはならな
いのだ。そしてまた、その本質的意味合いを超えた意味を付け加える必要などないのであ
る。