「大衆運動(後)」(2017年05月16日)

ブンカルノの歴史にも常に大衆が関わっている。優れたアジ演説者だったブンカルノは大
衆の意欲の発電機だった。チョクロアミノトやアグッサリムら、サレカッイスラムの要人
たちも、大衆を催眠術にかけた。サレカッイスラムの別のリーダー、スルヨプラノトは1
920年代初めに工場労働者を煽ってストを実現させたため、「ストの王者」とあだ名さ
れた。セマウンのような赤色サレカッイスラム初期の左翼活動家たちも、大衆の操作に巧
みだった。


著名な大ウラマのシェッ・ユスフ・アルマカッサリ(1628−1699)は必ず大衆と
結びついて大衆教育を行ったため、流刑地が次々と変えられた。かれは流刑先のセイロン
で原住民コミュニティを作って影響力を振るい、メッカ巡礼から帰国する東インドムスリ
ムにも働きかけていたことが発覚し、流刑地を南アフリカのケープタウンに変えられた。

しかしかれはそこでも大衆を指導し教化した結果、ケープタウンにはマカッサル地区がで
きあがっている。南アフリカの父ネルソン・マンデラはシェッ・ユスフから種々のインス
ピレーションを得ているのだ。大衆運動に支持されたトルコのレジェップ・タイイップ・
エルドアン大統領は2016年のクーデターにびくともしなかった。


政治が大衆という要素から離れることはない。民族運動期でも常にそうだった。時代を画
す最初の大衆行動は、インドネシア共和国独立宣言からひと月経った1945年9月19
日のイカダ広場における大会議だった。日本軍部隊が厳しい警戒態勢を敷いている中でブ
ンカルノは、民族指導者への信頼を維持して、整然と帰宅するように、と集まった大衆に
呼び掛けただけだった。しかし1960年代後半の政治紛糾期には、大衆行動(学生)も
がブンカルノを大統領の椅子から追い落とすのに加担した。

スハルト大統領のオルバ期には、1974年や1977・78年の学生運動のように、大
衆運動と学生運動は身動きできずに沈黙を強いられた。されど、歴史は繰り返す。経済ク
ライシスのあと1998年の大衆行動でスハルトは玉座からひき下ろされた。大衆行動と
はアナーキーな一部戦闘的集団によるものではない、とタン・マラカは書いている。ブン
カルノは、革命的でないのなら、大衆行動がその名称だ、と述べている。植民地時代や独
裁レジームで、またデモクラシーシステムが行き詰まった時代には、大衆運動が強力な武
器になった。

インドネシアは今、レフォルマシ期以来まとわりつかれている政治社会コンフリクト、多
様性への試練、貧困、リーダーシップ、民族防衛、法執行、行き過ぎたデモクラシー、そ
して激化するコルプシといったさまざまな問題から脱け出すことに全力で努めている。も
し大衆運動が民族のエネルギーを放出し続けるなら、それらの慢性的諸問題の解決は一層
難しくなるにちがいない。この国と民族、つまりわれわれがその被害を受け、また時間を
無駄にするのである。[ 完 ]