「名前に関する小論(前)」(2017年05月18日)

ライター: ガジャマダ大学社会政治科学部大学院卒、社会学者、ムハンマッ・アフィフ
ディン
ソース: 2016年11月28日付けコンパス紙 "Risalah Sebuah Nama"

2015年10月25日にバンドンでアセップ=アセップ会議(AA会議)が開催された。
それはアセップという名前を持つひとびとが一堂に会する催しだ。まるで遊び事のような
印象を受けるかもしれないが、その催事は真面目なミッションを持つものだったのである。

アセップという名前はグローバリゼーションの波に蝕まれつつあるローカル文化の落とし
子であり、その語彙の再認識を通じてローカル文化の保全に努めようという意図を持つも
のだったのだから。

たいていの民族が持っている伝統的古典的な考え方によれば、ひとの名前は親が子供に対
して抱く希望、つまり祈りなのである。祈りがさまざまな言葉で唱えられてきたように、
名前もさまざまな言語の中で用いられた。

マグランでは長子に「ハッピーニューイヤー」と命名した親がある。その子が新年を祝う
ひとびとと同じようにハッピーであることを期待したのだ。ところが長子は頻繁に学校を
サボったから、次子には真面目に学校へ行くように希望して「アンディ・ゴー・トゥ・ス
クール」と名付けた。ところがアンディは腕白で言い付けをあまり聞かなかったから、第
三子には「兄のようになるな」という思いを込めて「ルディ・ア・グッド・ボーイ」とい
う名前を与えた。(2015年9月8日付けトリブンジョグジャ)


「トゥハン(Tuhan =神)」という語を名前につける現象の出現も、似たようなものだ。ト
ゥハンたちが住んでいる地方の母語はインドネシア語/ムラユ語を源流にしておらず、そ
こでのトゥハンはインドネシア語/ムラユ語の意味である造物主とは異なる意味になって
いたのだから。

ジュンブルで使われたトゥハンという名前は造物主を意味していない。ジャワ語/マドゥ
ラ語を源流とするその地の母語では、パグラン(pangeran)あるいはグスティパグラン
(gusti pangeran)という言葉が造物主を意味しており、トゥハンという単語ではないので
ある。(2015年9月9日、スルヤ)

つまりそれが祈りであるかぎり、親は子供の名前に何語を選んでもかまわないということ
だ。インドネシアでの命名に関する興味深い現象は、言語形式面でのことがらでなく、本
質面での変化だった。最初は祈りであった個人の名前は今やその機能が変化して、社会政
治面におけるアジェンダや特定利益を目指すツールになってきている。


< 名前が祈りだけでなくなったとき >
「ジャワからアチェを目指す:政治・イスラム・ゲイに関する論説集」(2009年)の
中でリンダ・クリスタンティはオルバ期の中国名使用禁止にまつわるユニークな話を採り
上げた。中国系でスラバヤに住むリンダの友人は、中国名をやめてインドネシア名を使う
ことにした。かれはブバルという響きがたいへんインドネシア風だと考え、Bubarという
名前を採り上げた。更に、最後にnoを付けてブバルノ(Bubarno)とすれば、とてもジャワ
っぽくなる。こうしてかれのKTPはブバルノという名前で確定したのだが、ジャワ語辞
典を開くと、bubarnoというのはインドネシア語でbubarkanを意味していたのである。
[ 続く ]