「Pembelajaranは誤用」(2017年05月29日)

ライター: 文司、ジャカルタ在住、アントン・M・ムリオノ
ソース: 2003年7月26日付けコンパス紙 "Pembelajaran dan Pemelajaran"

昨今、多くの人々がpembelajaranを英語learningに対応する語として使っている。pembe-
lajaranという語は本当にbelajarの行為あるいはプロセスを指しているのだろうか?

比較対照として、同列の形態をいくつか見てみよう。われわれが言語法則の原理を遵守し
ているのか、それとも違背しているのかが明らかになるだろう。

Tugas menteri pemberdayaan perempuan ialah memberdayakan kaum wanita.
Pemberangkatan calon haji mengacu ke usaha memberangkatkan jemaah itu.
Pemberhentian karyawan yang membalelo bermakna tindakan memberhentikan pegawai 
yang membangkang itu.


接辞の付いた名詞と動詞の間に意味の関連性が存在する。pember-an形式の名詞はmember-
kan形式の動詞が表すものごとを起こす、あるいは成さしめることだ。pemberdayaanとは
berdayaに成ることであり、pemberhentianはberhentiの状態を起こさせることだ。

上述のパターンに従えば、pembelajaranは「belajarを実現させること」と解釈されなけ
ればならない。belajarするのは人間であり、生命を持たないエンティティではない。歴
史的に、言うまでもなく、派生語形成はそれを意図していたのだ。


pembelajaranという用語は最初、teachingとinstructionを区別したいジャカルタのIK
IP教育専門家層の間で出現した。teachingは教員をオリエンテーションにし、instruc-
tionは生徒をオリエンテーションにすると考えられたことから、pengajaranとpembelaja-
ranのペアを使う考えが出現した。前者はmengajarの行為を指し、後者はmembelajarkan
の行為つまり人がbelajarするのを起こさせることを示している。

mengajarするひとをpengajarと称するなら、mengajarkanするひとはpembelajarと呼ばれ
るだろう。そのひとが英語ではinstructorと呼ばれている。では、belajarするひとをわ
れわれはどう呼んでいるのか?言うまでもなく、pelajarだ。pelajarはlearnerと同じな
のだろうか?インドネシアでは、常にそうと限らないようだ。われわれの間にはpelajar
の階層ヒエラルキーに対する社会的感受性が存在しているらしい。

幼稚園や小学校のpelajarを指すmuridという言葉がある。普通、中学校に在学している者
を呼ぶpelajarという言葉があり、高校で学ぶ若者たちにはsiswaという言葉が使われる。
mahasiswaという言葉はsiswaレベルより一ランク上のpelajarを意味し、最初は大学の学
士課程で学ぶ者だけを指した。大学院課程が公式に認められると、履修者の中にmahasis-
waと呼ばれるのを拒む者が出現した。学士(sarjana)の資格を持ったのだから、もうmaha-
siswaではない、ということらしい。そのような実態が原因になったのだろう、すべての
階層のpelajarを包括的に呼ぶためにpeserta didikという語が作られた。

そんな実情が背景をなしていたことで、pelajarがlearnerに対応する語にならなかったの
は理解できる。なぜなら、それらの示すフィールドが異なっていたからだ。英語の
teaching-learning processという語句に対して、proses mengajar-belajarあるいはpro-
ses belajar-mengajarというインドネシア語が作られたことがあり、そのときは誤解も抗
議も起こらなかった。distant learningという言葉についても、われわれはbelajar ja-
rak jauhで対応させている。

他の教科をBerhitung、Menulis、Membacaといった動詞の形で称し、Penghitungan、Penu-
lisan、Pembacaanという形にしていないのと同様に、learningに対応する語のひとつとし
てbelajarという形を使うのは妥当な気がする。それらの動詞形はどうやら、英語でなく
オランダ語rekenen、schrijven、lezenの翻訳だったようだ。今はreadingやwritingのよ
うに語尾-ingの黄金時代だ。

ひとを対象にするmembelajarkanとは別に、もの・言語・性質・ことがらを対象にするmem-
pelajariもある。もしわれわれがインドネシア語の派生語形成パラダイムに従うなら、
mempelajariを行うひとはpemelajarであり、その行為やプロセスはpemelajaranとなる。
pemelajarとpemelajaranはlearnerとlearningに対応する別の語だ。

時代の発展と経験が新たなパラダイムの必要性を生み出す。ひとつはpembelajaran(inst-
ruction)、pembelajar(instructor)であり、もうひとつはpemelajaran(learning)、peme-
lajar(learner)である。世間に定着している誤用を修正する勇気をわれわれは持たなけれ
ばならない。