「パラダイムしよう」(2017年05月30日) ライター: 言語教育修士、ムリヨ・スニョト ソース: 2012年7月20日付けコンパス紙 "Mari Berparadigma, Wow!" 今から一ウィンドゥ(8年)以上も昔、故アントン M ムリヨノは記者や編集者たちに 聡明な言語使用を促した。更にその文司はマスメディア就業者に、論理的・システム的・ パラダイム的な言語使用と原理に忠実に従うことを呼びかけた。かれの呼びかけは、一般 人の言語使用の中で世間に定着した誤用を改めるための第一歩だと見ることができる。 アントンは報道関係者を、言語使用における世に定着したさまざまな誤用を放置し続け、 それどころか誤用を確立させるようなことをするにはふさわしくない知識層と位置付けた。 きわめて残念なことに、その文司の呼びかけには今日まで意味ある反応が出されていない と言える。言語は数学ではない、言語は使用者のマジョリティが決めるもの、ジャーナリ ストや編集者は誤用を放置して新聞の紙面・ネットサイト・TVスクリーンをさまよって いる、などという言い訳で。 知識人に区分されてはいてもインドネシア語の原理を修得する暇のなかった学術者・高官 ・NGO活動家・あるいは有識者のだれであれ、世の中に定着した誤った単語・句・節・ 文を述べることは稀でなく、それどころか言語法則にさえ外れることが多い。ジャーナリ ストや編集者は自分の言葉を修正することもなく放送している。その結果、言語用法にお ける誤用はますます定着していくのである。慣用と見なされているシステマチックでもパ ラダイム的でもない言語パターンに記者や編集者は、反体制的態度を用いて反対しようと しない。誤用を正そうとするジャーナリストたちの度胸はまったくゼロ。スマートで批判 的に言葉を使う代わりに、かれらは自然で本能的な口語表現に傾いている。 パラダイムにまつわる誤用に焦点を当てようと思う。つまり、ある単語のすべての活用や 語形変化を示す全派生語リストだ。2003年7月26日のこのコラムでアントンは、 ajarという語がパラダイム的にどのように種々の派生語を形成するかについてシステマチ ックに述べた。早い話が、英語のinstructionに対応する名詞pembelajaranはmembelajar- kanする行為つまりmenyebabkan orang belajarを意味しているのである。素人であれ知識 人であれ、世間でpembelajaranは、belajarの行為あるいはプロセスすなわちmempelajari、 英語ではlearning、の意味にされている。アントンによれば、learningの意味を持つイン ドネシア語名詞はpemelajaranなのだ。もう一度言おう。pemelajaranなのである!9年前 にかれはそう述べているのだ。そしてその5年後にインドネシア語大辞典KBBIはそれ を採り上げた。どうなっているんだろう。利口者も愚か者も違いはない。両者はきっとこ う叫ぶだろう。「pemelajaran?そりゃいったい何だ?pembelajaranなんだよう。」 このパラダイム問題では、KBBIは往々にして助けにならないようだ。たとえば、latih という語を例にとってみよう。この語が形成する派生語の中には、動詞melaltihとそれが 作る名詞pelatihanがある。ならば、動詞berlatihが作る名詞は何だろうか?perlatihan か、それともkeberlatihanなのか?KBBIはその問題の答えを与えず、パラダイム的に berlatihの結果を意味する名詞latihanに多義性を与えているだけだ。口語的にpelatihan を意味する;pendidikan untuk memperoleh kemahiran atau kecakapan;berlatih。 ジャカルタで発行されている、とある新聞からの引用に着目してみよう。 Atlet renang itu berlatih habis-habisan pagi dan sore. Latihan itu dilakukan untuk mempersiapkan diri menjelang Olimpiade London 2012. 動詞berlatihがlatihanという形の名詞を派生させるのであれば、派生語の形式における パラダイム的特徴はいったいどこへ行ったのだろうか?わたしはberlatihのプロセスある いは行為を意味する名詞perlatihanまたはkeberlatihanが英語のrehearsalに対応してい ると考える。その上、動詞berlatihの派生語形態であるperlatihanやkeberlatihanのほう がlatihanに比べて少しは、エヘン、パラダイム的なのだ。