「ブンクルの旅(前)」(2017年06月02日)

スマトラ島南部インド洋側にあるブンクル(Bengkulu)の名前は知らなくとも、ベンクーレ
ン(Bencoolen)という名前なら知っているひとがいるかもしれない。ベンクーレンはイギ
リスがブンクルの町を領有したときに使った英語名称だ。
ブンクルの町にはイギリスが1719年に完成させたマルボロ要塞があり、重要な観光資
源となっている。
コンパス紙記者が2016年9月にブンクルの町を訪れた。そのときの旅行記がこれだ。

[月曜日10時]
1938年にスカルノはオランダ植民地政庁によってブンクルに流刑された。家族を伴っ
てブンクルに来たスカルノは、華人チャン・チェン・クワッの邸宅に住んだ。1918年
に建てられたその家はいま、スカルノハッタ通り8番地に存在しており、博物館になって
いる。
スカルノの一家が使ったときの状態が保存され、スカルノの書斎にもかれの蔵書が置かれ
ている。オランダ語の書物が目に付く。
一家が使っていたがっしりした自転車があり、そしてスカルノが組織した劇団のための衣
装まで保存されている。
スカルノはこの家でファティマと出会い、子供の産めないインギッを離婚してファティマ
を妻にした。インギッはファティマをわが子のようにかわいがっていたので、自分の子供
を欲しがるスカルノのために自分は身を引き、ファティマをスカルノに勧めたという話し
だ。
このファティマは後にファッマワティと改名し、スカルノの独立宣言そして大統領生活に
付き添ってファーストレディの役割を果たした。
1942年に日本軍が蘭領東インドを占領するや、日本軍政はブンクルに流刑中のスカル
ノをジャワに連れ戻している。

[12時]
スカルノが住んでいた邸宅からあまり遠くない場所に、ファティマが少女時代を過ごした
家がある。家の表には「Rumah Ibu Fatmawati Soekarno」という表札が掲げられている。
この家にもファーストレディとなったファッマワティが使っていたさまざまな品物が置か
れており、かの女が独立宣言のときに掲揚される紅白旗を一晩で縫い上げた際に使われた
ミシンもジャカルタからこの家に移されている。
この家はファティマの生家でなく、親族の家だったそうだ。ファティマの実家はブンクル
の町からおよそ90キロ離れたレジャンルボン県にある。[ 続く ]