「乞食ピエロ」(2017年06月13日)

ライター: ジャーナリスト、ブレ・ルダナ
ソース: 2017年4月23日付けコンパス紙 "Badut"

昨日、わたしの甥の誕生パーティに訪れたとき、以前と異なり、ピエロの姿がなかった。
4月19日(水)に5歳の誕生日を迎えた甥の喜びを奪ったのは何だったのか?「ピエロ
はもう嫌だそうだ。」妹婿はそう語った。今やピエロはすべて乞食なのだそうだ。

わたしは腰が砕けた。この子の社会観察力はわたしより鋭い。次の瞬間、わたしは思い出
していた。昨今、路上にはピエロのなりをした乞食が満ちあふれている。ミッキー、ミニ
ー、グーフィー、わたしの愛好するドナルドまでが遅れを取らずに路上に出て舞いながら
乞食をしている。路上で小汚くなったウオルト・ディズニーのピエロに加えて、ときには
青年や子供を従えたオンデルオンデルの集団が村中総出で大通りを歩きながら、自動車の
運転者に掌を広げて小銭をくれと物乞いしている。

国際エンターテイメント業界のピエロから大衆芸能のキャラクターまでが路上で乞食をし
ているのだ。しばらく前に中部ジャワへ行ったとき、スマランのスロンドル交差点でクダ
ルンピンのグループが、信号が赤に変わるや否や、路上で踊り狂うのを目にした。更に南
に向かい、自然の風景がことのほか美しい道路を通った。遠くの山々を背景にしたラワプ
ニン(これが植民地時代に自然派絵画界の主流をなしたモオイインディ絵画のモデルだ)
の交差点で、ふたたび伝統芸能グループが出現した。これほど肥沃な土地にもかかわらず、
どうしてわが民族は乞食になることしかしないのだろうか?

さまざまな手段で物乞いするのをわれわれが眼にするのは、もはや日常生活の一部になっ
ている。ボゴールのアンコッでは、できるかぎり怖そうな風体をした青年がアンコッに飛
び乗り、しゃがんで楽器を演奏する。路上ではいたるところで、世界でもっともシンプル
な楽器を奏するミュージシャンにお目にかかる。一片の木切れにコカ・コーラ瓶のふたを
釘打ちしたものだ。要するに、東から西まで乞食のオンパレードなのである。


われらが社会の尊厳はどこにあるのか?われわれは地方首長選挙キャンペーンの時期を終
えたばかりではないか?たいへんなエネルギーを消耗するジャカルタの選挙キャンペーン
で、民衆は毎日、ありとあらゆる約束を聞かされ続けた。すべてが美味で、容易で、無料
だ。現世的な約束ならびに来世的な約束など、ありとあらゆる約束ごとはさておいて、民
族精神を築き上げていく政治プログラムはないのだろうか?

われわれの村は、今や昔ながらのものではない、と東ジャワ州ポノロゴの研究者が数年前
に語った。かれによれば、政治ダイナミズムに反応する村社会の姿勢をマネーポリティク
スが変えてしまったそうだ。地方首長選挙や大統領選挙のキャンペーンの際、政治家がい
つも行っているごまかしをやり返すときは今だ、と村人たちは考える。マネーポリティク
スが選挙区を水浸しにしている最中に、金主から搾取しようというのである。

「ポスト真実時代を謳歌する今」とあなたが言う現在の、それがわれわれの現実なのだよ、
グナワン・モハマッ君。法曹界においてひとが不公正に扱われる三つのことがらに関連し
て、あなたは次の例を挙げた。(1)讒言、(2)裁判以前に有罪と決めつけられる、
(3)納得性の薄い法で裁かれる。

現実と非現実、リアリティとバーチャルリアリティー、論理と妄想、理性と幻想の境界線
を取り払ったデジタルテクノロジーの進歩がポスト真実時代の宴に一役買っている。ポス
ト真実 ― わたしはpasca-kasunyatan(ポストリアリティ)と表現する方を好む。あな
たが例を示したリアリティとものごとの位置付けはものごとの由来から離れて、由来を持
たないリアリティと化している。

論理と理性が関わっている大衆の合理性パワーは、読書意欲の低さのせいで限界がある。
今や文学界は、文字嫌いな大衆のデジタル世界に蹂躙されて、絶滅の戸口に立たされてい
る。地球は丸くなく、平坦であるとかれらは信じているのだ。大衆は妄想に支配されてい
る。

向こうの世界の約束を作れ。それが大人気を博することは既に証明済みだ。興味があれば、
乞食集団の組織を作って政党を組め。支持者があふれるだろうことは、保証済みではない
か。