「国歌インドネシアラヤの歴史(3)」(2017年06月14日)

その歌詞のリフレイン部分にある「ムリア ムリア」を青年たちが「ムルデカ ムルデカ」
と変えて唄っていたことから、オランダ植民地政庁が問題視しはじめ、スプラッマンは逮
捕尋問されることになる。そして1930年にオランダ政庁はその歌を唄うことを公式に
禁止した。


スプラッマンはDari Barat Sampai ke Timur、 Bendera Kita、 Ibu Kita Kartiniなどの
歌曲を生み出し、そして最後にMatahari Terbitという歌を作ったことから1938年8
月7日に獄舎につながれた。その曲はオランダ領東インドを含む南方への軍事進出を画策
している大日本帝国へのラブコールではないのか、というのがオランダ植民地政庁が抱い
た疑惑だった。そして過激派のレッテルを植民地支配者に捺されたスプラッマンは、ほど
なく世を去った。当然ながら植民地政庁は、Matahari Terbitを唄うことを禁止している。

大日本帝国はオランダ領東インドに向けたラジオ放送でインドネシアラヤの曲を頻繁に流
していた。中でもイントロに愛国行進曲の一部を使い、それに続けてアップテンポのマー
チ風にアレンジされたものはなかなかの出来だったようだ。ところが1942年に日本軍
がオランダ領東インドを占領すると、インドネシアラヤを唄うことが禁止された。
その後戦局の変化とインドネシア独立の承認という方針転換によって、1944年にイン
ドネシア民族歌制定の動きが開始された。オランダ植民地支配下の状況を踏まえてスプラ
ッマンが作った歌詞はそのときに、より意欲的で直截的な歌詞に変更された。日本軍政下
に改定された歌詞はリフレインが次のようになっている。
Indonesia Raya, Merdeka Merdeka, 
Tanahku, Negriku yang Kucinta, 
Indonesia Raya, Merdeka Merdeka, 
Hiduplah Indonesia Raya


ところがインドネシア共和国独立宣言のあと、国民の間ではスプラッマンのオリジナルバ
ージョンと1944年改定版が同居してどっちつかずの状態になっていたため、1948
年11月16日から国歌確定のための検討が始まって1958年6月26日に決着した。

法的確定は1958年7月10日付けの政令第44号でなされている。この政令第44号
には楽譜と歌詞が付則として添付されており、調子・リズム・伴奏・歌詞・アレンジ等が
標準化され、それに従わない場合は違法と判断されることになった。

政令第44号に定められた標準インドネシアラヤは1950年にオランダ人でジャカルタ
コスモポリタンオーケストラの一員だったヨス・クレーバーが編曲したものがベースにな
っていて、そのアレンジはスカルノ大統領の意向を織り交ぜたものになっている由。そし
て今現在演奏されるインドネシアラヤも、そのアレンジにもとづいたものになっている。

元々スプラッマンが最初に書いた楽譜はCスケールになっていた。早すぎないように、と
いうのがテンポの指示だ。しかし演奏されたときはGスケールが使われたらしい。唄うと
きの声の音域に配慮したようだが、実際にはこの歌の最高音が出せないひとが多いらしく、
しばしばFスケールで演奏されている。またヨス・クレーバーの編曲はテンポがMaestoso 
con bravura となっている。[ 続く ]