「スプラッマンのミニ博物館」(2017年06月21日)

ワゲ・ルドルフ・スプラッマン(Wage Rudolf Supratman)は1903年3月9日月曜ワゲ
の日にジャカルタのジャティヌガラで生まれた。6人兄弟姉妹の5番目の子供だ。親が付
けた名前はワゲ・スプラッマンだったが、1914年に一番上の姉がマカッサルへ連れて
行って育てたとき、オランダ学校に入りやすいようにと考えてルドルフという名前をつけ
足した。

マカッサルで師範学校を卒業してから、かれは教師および事務員として働くかたわら、
Black & Whiteというジャズバンドのリーダーを務めていたこともある。1926年には
中華系ムラユ語新聞の「新報(Sin Po)」のフリーランス記者として働いた。かれはいくつ
かの文学作品をも世に送り出している。
Perawan Desa 、Darah Muda 、Kaum Panatik という作品の中で、1929年に発表した
Perawan Desaは植民地政庁が1930年に発禁処分にしている。音楽活動の嚆矢はIndo-
nesia Rayaだったようだ。1926〜28年に完成させたIndonesia Rayaの他に、192
8年にIndonesia IbukuとBendera Kita Merah Putih、1929年にBangunlah Hai Kawan 
とRaden Ajeng Kartini(Ibu Kita Kartini)、1930年はMars KBI(Kepanduan Bangsa 
Indonesia) 、1931年Di Timur Matahari 、1937年Mars Parindra とMars Surya 
Wirawan 、1938年Matahari Terbit そしてSelamat Tinggal が未完の作品として残さ
れた。


スプラッマンが世を去ったのは1938年8月17日水曜ワゲの日で、享年35歳だった。
かれは結婚したことがなく、家族は持たなかった。かれはスラバヤ市タンバッサリ郡マン
ガ通り21番地の狭い質素な家で孤独な生涯を終えた。ゴミゴミと建て込んだタンバッサ
リ地区のその家は6X13メートルの小さい家で、玄関を入ると3X3メートルの応接間
があり、そして2X3メートルの寝室がふたつ並んでいる。裏には浴室と4平米の小さい
台所がある。

この家が2003年5月18日に「国家英雄W.R.スプラッマンのミニ博物館」として
公式オープンされた。家の中には家具やスプラッマンが遺した資産となるような価値ある
物品が何ひとつなく、スラバヤ市の歴史保存のために活動している民間団体LPKPがそ
の家の管理を開始したとき、既にそんな状態であったとのことだ。かれの由緒あるバイオ
リンでさえ、国立博物館の所蔵になっている。

だからこのミニ博物館は壁にかつてのスプラッマンの生前を思い起こさせるようなものが
掲示されているばかり。その中に、死の二日前にスプラッマンが書いた、まるで遺言のよ
うな文章が掲げられている。

原文は旧綴りで書かれているが、現代綴りに直して下記しておこう。
Nasibku sudah begini.
Inilah yang disukai oleh pemerintah Hindia Belanda.
Biarlah saya meninggal,
Saya Ikhlas
Saya toh sudah beramal
Berjuang dengan caraku
dengan biolaku
Saya yakin
Indonesia pasti merdeka.