「消えたインドネシアラヤ録音原盤(前)」(2017年06月22日)

ワゲ・ルドルフ・スプラッマンの作曲したインドネシアラヤは、1928年10月28日
に青年コングレスの場ではじめて演奏されたわけではない。その一年ほど前に、スプラッ
マンはこの曲を録音して世に出そうとした。そのときスプラッマンはバタヴィアの華人ム
ラユ語新聞「新報(Sin Po)」の記者をしていた。「新報」社はインドネシア民族運動に同
情的なマスメディアだった。

かれは最初オデオン社にアプローチしたが、オデオン社は乗ってこない。それで録音スタ
ジオを持っているパサルバルのティオ・テッホン(Tio Tek Hong)に話を持ち掛けたものの、
ティオも首を横に振った。最終的にスプラッマンは友人のヨー・キムチャン(Yo Kim Tjan)
に助けを求めた。録音はヨーのビジネスのひとつでもある。Toko Populairという店をメ
インのビジネスにしているヨーはドイツ人技師に手伝ってもらって、グヌンサハリ通り3
7番地の自宅で録音を行い、レコード原盤に刻み込んだ。

ヨー・キムチャンの娘カルティカによれば、原盤は二種類作られたそうだ。ひとつはスプ
ラッマンのバイオリンと唄が入ったもの、もうひとつはオルケスポプレール(Orchest 
Populair)がクロンチョン様式で演奏したもの。クロンチョン音楽はその当時、知識層に
人気の高い音楽であり、クロンチョンアルバムの中にインドネシアラヤを混ぜ込んで植民
地政庁官憲の目をかすめる方策が採られた。

ヨー・キムチャンは密かにクロンチョン様式の原盤を持ってイギリスに渡り、商業用の複
製を作った。2014年に91歳で世を去ったカルティカの話では、イギリスからの大量
の複製がタンジュンプリオッ港に届くと、すぐに植民地政庁がそれを没収したそうだ。ヨ
ーの一家はなんとか二種類の原盤の安全を確保するのが精いっぱいだった。原盤は複製用
のブランクレコードの間に隠されて別便でインドネシアに送られ、ヨー一家の手に戻った。

日本軍がやってきたとき、ヨー一家はまずカラワンに避難し、更にガルッ(Garut)へ移っ
た。二種類の原盤は隠し通された。ヨーは日本軍に没収される危険を強く感じていたそう
だ。日本軍は日本軍で、東京で録音したインドネシアラヤのレコードを持って来た。愛国
行進曲の一部をイントロにする日本バージョンのインドネシアラヤだ。東京外国語学校で
インドネシア語を教えていたラデン・スジョノは1942年3月1日にバンテン湾上陸部
隊と共にやってきたが、かれが使うつもりだった日本バージョンのレコードを積んでいた
輸送船が撃沈されたため、日本軍と一緒に上陸することができなかった。[ 続く ]