「国籍政治(後)」(2017年06月29日)

レフォルマシレジームは宗教的ナショナリズムに、政治機構イデオロギーとしてパンチャ
シラなしの宗教の可能性という新たな一章を開いた。こうして実際には一社会集団に関わ
っているだけの宗教がイデオロギー化され、民族の織布を腐食させる潜在性を持ち始めた
のである。宗教ファンダメンタリズムがパンチャシラと国家を従属物にしようとし、必要
であれば宗教法が国法と公共秩序を支配するのである。

国籍を超越するウンマーのパラダイムにおいては、良き民というのは順法・納税・腐敗の
ない潔癖さ・社会奉仕・学問やスポーツで国の名声を高めるといったポイントで評価され
るのではない。民の良し悪しは宗教との関りにおいて判定されるのである。宗教も公共ス
ペースに割り込んでくる。行き過ぎれば不寛容が強まる。そこで言う良き民の基準を満た
せない者の市民権が損なわれるのを当然とするようになる。


< 国籍の必須事項 >
事実上、民の日常生活は複数のアイデンティティによって、互いにそれを衝突させること
なしに、営まれている。日常生活の必要に応じて、特定のアイデンティティが起動し、他
のアイデンティティはその間、深層に沈む。あらゆるシチュエーションに単一アイデンテ
ィティが使われるということは単に幻想であるばかりか、国民アイデンティティの多様性
を傷つけるものだ。

いくら重要であろうが、宗教は民のアイデンティティのひとつでしかなく、それすら信仰
者にとってのものでしかない。世にある生活の諸業と問題の多くは、技術的に国が取り扱
っている。宗教と国の接点は技術相にあるのでなく、多様性における国家国民を強化する
諸価値の相にある。民の多様性を克服する国家イデオロギーがパンチャシラなのだ。

アイデンティティ政治は、政治的選択あるいは関りを基盤に置く政治アイデンティティと
区別されなければならない。アイデンティティ政治は20世紀後半に、差別を蒙っている
抑圧されたマイノリティ集団という環境において発展した比較的新しい政治運動だ。その
発展の中でアイデンティティ政治も単一アイデンティティ基盤の政治運動として使われた。
たとえマイノリティ層への抑圧という前提条件が存在しなくとも。

プリブミや宗教という単一アイデンティティ政治の残滓はいまだに強い。首長選挙の時期
に民の政治選択は単一アイデンティティに関連付けられた。ナショナリズムは一枚岩で反
多様性であると意味付けられた。ナショナリズムは自己修正能力を持っていない。そのた
めに、国民の様々な模様のナショナリズムに場を与えるために国籍政治が存在するのであ
る。

国籍とは住民アイデンティティだけでなく、また教育カリキュラムに限られるものでもな
い。国民も国も国籍政治に関わっている。水平方向では、全国民は民主的な公共スペース
で社会的相関関係の中にある。国民としての責任感はプライモーディアルなつながりへの
責任感を超越する。国民としての自覚がウンマー意識の上を覆う。ウンマー意識は民族意
識に対立するものでない。

垂直方向には、差別なしという国民の権利を保証する義務を負う政府に対して国籍ステー
タスが全国民を統一する。国民が法に背かないかぎり、デモクラシー制度が規範的にあら
ゆる形態の差別を容認しない。デモクラシー国家が差別を合法化するツールになってはな
らないのだ。全国および地方レベルの首長は、法執行においてえこひいきするのでなく、
全国民が法の前で平等であることを保証しなければならない。

一民族のデモクラシーレベルは総選挙での投票率で測定されるだけでなく、国籍政治の実
践からも測られる。国籍は政治アイデンティティとして与えられるが、国籍政治は社会的
に実定法と文化ツールを通して操縦されなければならない。その方法によってのみ、プラ
イモーディアリズムを超える性質のナショナリズムが打ち立てられるのである。[ 完 ]