「女性ウラマ(後)」(2017年07月12日)

イスラム教世界とキリスト教世界のもっとも根本的な違いがその宗教絶対性というポイン
トにあることはもっと理解されてよいはずだが、身近なキリスト教世界の情報に従って世
界を一元化し、その知識からイスラム世界の諸現象を解釈しようとするひとがあまりにも
多いのは、残念なことだ。その一方で、宗教絶対性の希薄化が進み、世俗化の傾向が進展
しているキリスト教世界という姿が意味しているものを消化できないまま、その信徒でも
ないのに原理主義的でない異教徒を揶揄侮蔑する者が多いのも理解を絶する現象だという
気がわたしにはする。

ところで、イスラム暦別名ヒジュラ暦の元年元日が西暦622年7月16日となっている
ため、それを預言者ムハンマッのヒジュラの日と理解しがちだが、ウィキぺディアによれ
ばムハンマッがヒジュラを行ったのは西暦622年9月であり、その差が発生したのは、
西暦638年にカリフのウマル・ビン・ハタブがヒジュラ暦を決める際に起こったテクニ
カルな問題のせいらしい。言うまでもなく、多数のムスリムはヒジュラの日をヒジュラ暦
元日にしたと理解しているから、世間一般に流通している誤解ということになる。この辺
りの真偽がわれわれの口を差し挟む余地のない問題であるのは言わずもがなだ。


さて女性ウラマだが、元来ウンマーと呼ばれるイスラム共同体では、宗教教義の知識と理
解の少ない一般大衆がそれを豊かに持っている人間に生活の場での指導を仰いだ。だから
本来、資格というようなものとは無縁だった。世間がその個人の実力を見て決めているの
である。男性の日常生活には男性の問題があり、女性には女性の問題がある。だから女性
には女性の宗教指導者がいて当然だ。それが女性ウラマの存在している理由である。その
状況は言うまでもなくユニバーサルなものであるから、世界中のイスラム社会に女性ウラ
マが存在する余地は十分にあるということだろう。

第一回インドネシア女性ウラマコングレスの中で討議された諸問題の中に、例によっての
ポリガミー問題がある。イスラムは宗教の名においてポリガミーを許していることから、
女性を劣等視し、権利を踏みにじっている宗教だ、とイスラムを見なす見解は間違ってい
る、という結論が採択された。それはモノガミーを前提にした見解であり、イスラム発祥
以前のアラブ地方ではモノガミーが社会的価値を持っておらず、ポリガミーが慣習となっ
ていたのだから、イスラム教がポリガミーを行えと命じているのではなく、無制限のポリ
ガミーに最大4人という制限を与えたのがその本質なのだ、という解説が加えられた。

イスラムは平等という観念を重要視している。だから女性を平等に扱えるなら、「二三四
人を娶るがよい。しかし平等に扱えないと怖れるなら、ひとりだけ、もしくは自分の持っ
ている奴隷だけにせよ。」とアンニサの章第四節に記されている。その文章をどう読むか、
ということから現実を見るなら、最初の文章だけが取り上げられ、二番目の文章は無視さ
れている印象が強い。重点が置かれているのはどちらなのか?女性にとっては後者である
にちがいない。ならば世の中がどうして後者にシフトして行かないのか。それは男性ウラ
マの男性セントリックなものの見方が世間に優勢になっており、女性ウラマがまだ少ない
ために力関係が拮抗していないためだ。女性ウラマたちはそのように見解を述べている。
[ 完 ]