「旧綴りのバラード」(2017年07月13日)

ライター: インドネシア大学文化科学部教官、カシヤント・サストロディノモ
ソース: 2010年6月4日付けコンパス紙 "Balada Ejaan Lama"

遅かれ早かれインドネシア語の旧綴り方(EYD以前のもの)は現世代や次世代の知らな
いものになっていくだろう。その現象はある電話料金支払窓口ではっきり表れた。

そこの窓口職員は旧綴り方で書かれている顧客の名前を読み間違えたのである。たとえば
Kasijantoという名前だ。本人はそれをカシヤントと読まれるべきだと思っているのに、
EYD式にカシジャントと窓口職員は発音したのである。おかげでレノンの登場人物であ
るジャントゥッみたいな響きが聞こえた。

同じ現象はいろいろ異なる場所で同じように発生した。銀行で、郵便局で、薬局で、そし
てこの先もまだまだ起こるだろう。だったら名前の綴りをどうしてEYD式に変えないの
か?それは言うほど簡単なことではないのだ。なぜなら、出生証書・KTP・署名文書な
ど既存の公文書との間に紛糾を起こすから。名前の綴りの不一致は、従業員管理のような
管理関連の用件が起こるとたいへん面倒になる。だから、ポジティブシンキングで行くし
かない。そんな些細な事件は単なる誤解でしかない。その職員は他の綴りがあることに無
知なのだ。あるいはなじみのない発音で呼ばれた自分の名前に違和感を感じただけだ。


その小さな事実はEYDの施行が異なる他の綴り方への想像を呼び覚まさないという意味
でほとんど完璧なものであることを示している。問題はそこにある。われわれはインドネ
シア語のモダン化に熱意を持っているものの、インドネシア語の中にかつて生きたバリエ
ーションをすぐに忘れてしまう。インドネシア語の歴史の中には6種類の綴り方が生れた。
ファン・オパイゼン綴り(1901年)、スワンディ式あるいは共和国式綴り(1947
年)、プリヨノ=カトッポ式あるいは更新綴り(1957年、実施されなかった)、ムリ
ンド綴り(1959年、実施取消)、新綴りあるいはLBK綴り(1967年、LBK = 
Lembaga Bahasa dan Kesusastraan 今の国語センター)、そして1972年のEYD。

公共サービス窓口職員たち1970年代以降に生れた世代は学校時代にインドネシア語の
綴りのバリエーションに関する十分な情報を与えられていないように見える。その証拠は
明瞭だ。一般的に小学校から大学までのインドネシア語教科書には綴りの歴史が記されて
おらず、補足資料にすら見当たらない。綴りに関する授業は綴り方の技術面一辺倒だ。大
文字小文字の使い分け、句読点、語の短縮方法、等々である。歴史的人物や組織の名称を
記載した歴史の教科書は古い綴り方を生徒に教える代替機能を持ってしかるべきだという
のに、実際にはそうなっていない。各時代ごとの民族運動著名人の名前はファン・オパイ
ゼン綴りでなくEYDに変えられている。たとえば2007年のある教科書でTjipto 
MangoenkoesoemoはCipto Mangunkusumoと書かれており、そのことに関する説明はどこに
も記されていない。著名人の名前の綴りをEYDに変えるのが実用的なステップであって
も、歴史的な関連を説明する註があるべきだろう。


古風な綴りが姿を変えることを嘆く必要はない。その足跡がインドネシア語の中から完全
に姿を消し去ることはありえないと思われる。少なくとも人類学・考古学・言語学・歴史
など、ソースとしてのテキストの正当性を求める文化研究がそれを維持するだろうから。