「バタヴィア港(1)」(2017年07月21日)

バタヴィア港。
オランダ東インド会社(VOC)が建設したバタヴィアの町の表玄関がそのバタヴィア港
だ。今ではジャカルタとその名を変えているバタヴィアの港はかつて、ジャカルタ北岸の
中央部、旧バタヴィア市街の北端にあるスンダクラパ(Sunda Kelapa)にあった。

ジャワの他地方やスマトラ、スラウェシ、あるいはカリマンタンから資材を運んできたフ
ィニシ帆船が集まっている、あのアンティークな雰囲気に満ちた埠頭がかつてのバタヴィ
ア港だったのである。しかしスンダクラパ港は今でも生き続けている港だ。

古来からの帆船が積荷を輸送している姿は歴史の生き証人としての相貌を垣間見せてくれ
るものだが、スンダクラパ港の機能はそれだけにとどまっていない。毎日およそ三百隻の
フィニシ帆船が集まってくるその埠頭とは別に、ずっとその奥に入っていくとジャカルタ
湾にそのまま面した埠頭があって、もっと大きな動力船が接岸して荷役しているありさま
を目にすることができる。スンダクラパ港は文化遺産であることにとどまらず、現代のイ
ンドネシア経済にも依然として関与しているのである。


もちろん、かつてのバタヴィア港にジャカルタ湾に面する埠頭はなかった。バタヴィア港
というのは、そのフィニシ帆船が集まっている埠頭を指している。かつてインド洋から東
アジアまでの海と海岸をわがもの顔に疾駆したVOC商船隊の本拠地であるバタヴィアの
港があんなものでしかなかったのか、という意外な念に襲われたひとは、きっとわたしだ
けではあるまい。

フィニシ船の集まっている埠頭と対岸が形成している細長い水路は、両岸が埋め立てられ
た結果、北へ北へと伸びていったものだ。古い歴史の当初には、スンダクラパ港もなけれ
ばパサルイカン(Pasar Ikan)の出っ張りもなく、更にはプンジャリガン(Penjaringan)地
区の大きな半島部すらなかった。そこにあったのは、砂浜と海、そしてボゴール丘陵から
ジャカルタ湾に流れ込んでくるチリウン川(Sungai Ciliwung)の河口だけだったのである。

ジャワ島の川はほとんどが土砂を運んでくる。放置すれば川は浅くなって船舶の航行に障
害をもたらす。浚渫作業はひっきりなしに行われた。今でさえ雨期が近づいてくれば、ジ
ャカルタの水害常習地区を流れる川という川では、川の底ざらえが行われている。チリウ
ン川が住民にもたらす宿命がきっとそれだったにちがいない。

チリウン河口を浚渫すれば、すくった泥や土砂は両岸に積み上げられたことだろう。年々
同じことが行われたなら、そこに水路が出現するのは容易に想像できるはずだ。こうして
バタヴィア港はオランダ人がハーフェンカナール(Haven Kanaal)と呼んだその水路ととも
に、沖へ沖へと伸びて行った。


そもそも、パジャジャラン王国時代の有力港のひとつだったカラパ(Kalapa)、1527年
にファタヒラ(Fatahillah)別名ファレテハン(Faleteahan)による征服でバンテン王国の属
領として生まれ変わったジャヤカルタ(Jayakarta)、また1619年にヤン・ピーテルス
ゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)に征服されてVOCのアジアにおける根拠地とし
ての運命をたどるようになったこのバタヴィアの町。そのいずれの時代においても、帆船
による通商の時代にもっとも重要な位置を占めたのが港であり、町は港を支えるための存
在だった。その意味で、町と港の一体性は疑いようのない絶対条件であったと言える。バ
タヴィアの町が今で言う旧バタヴィア市街であったころのスンダクラパ港は、バタヴィア
の町が南部へ広がっていくに連れて規模のバランスが崩れてしまい、ついには1886年
にずっと東のタンジュンプリオッ(Tanjung Priok)に大型海港の新設を強いる結果となっ
た。町と港の一体性はそんな事実にも反映されているようだ。[ 続く ]


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