「バタヴィア港(2)」(2017年07月24日)

パンラゴ山(Gunung Pangrango)に源を発するチリウン川がボゴール丘陵地帯を下って北上
し、猖獗の熱帯湿地原を形作りながらジャワ海に、いやジャワ海の一部分をなしているジ
ャカルタ湾に流れ込む、その河口にできた天然の要港がカラパの、そしてジャヤカルタの
港だった。そこがバタヴィア港となっても本質的な違いは生じなかったとはいえ、オラン
ダ人は湿地や川を埋め立て、運河を掘り、また川を改修するなどして、かれらが熱帯の地
で営む暮らしを改善することに努めた。そのためにバタヴィア時代に入ってからは、この
地域一帯の状況は変化を続け、その変化の伝統はオランダ人が去ってからもインドネシア
共和国の中で営々と続けられている。

チリウン川が上流から運んでくる泥土は、長い年月の間に平地に堆積して川底を浅くし、
洲を作った。雨季乾季の水量の差、定常的な川の氾濫。平地は一大湿地原となり、高まっ
た小丘や固い土地がところどころに島のように浮かぶ。ジャカルタの地名の中に、rawa, 
pulo, tanjungなどのような水に関連する地名がたくさん見つかることが、その事実を証
明しているかのようだ。そのようにして形成されたジャカルタの地質は、豊富な地下水と
水はけの悪さという、同じ根から出た便不便をかこつ宿命をこの地の住人に負わせている
のではないだろうか。


港もその泥土の襲来から免れることはできない。チリウン川の河口や周辺の岸辺では、沖
に向かって遠浅の環境がおのずと作られていく。河口に近いチリウン川一帯では、バタヴ
ィア時代の初期まで水量次第で外洋船が乗り入れていたものの、日ごとに川底をせりあげ
てくる自然の猛威には勝てず、造船技術の進歩による船舶の大型化も相まって、陸地への
接岸なしにボートやはしけによる沖合での乗降や荷役へと様式が変化していった。大海原
を乗り越えてきた船は座礁しない程度に陸地に接近して投錨すると、乗客や貨物を上陸さ
せるために小型船がその間を往復したのである。しかしそんな方式では、陸揚げされる貨
物の大きさや重さに限界が生じる。外洋航行する大型船が直接陸地に接岸し、クレーンを
使って巨大な重量物を陸揚げできる港が必要となるのは時間の問題でしかなかった。こう
して1886年にタンジュンプリオッ港が誕生し、バタヴィア港は海の玄関口としての使
命を終えることになった。

1631年ごろ、VOCはバタヴィアの町の中央を貫通するチリウン川を改修してまっす
ぐな流れに変え、今日われわれが目にするあのカリブサール(Kali Besar)の姿になった。
そのころ船はまだ市街の中まで進入し、川岸で荷役を行っていたようだ。河口近くの西岸
には造船所が1632年に作られ、小型からせいぜい中型の船までを建造や修理してはカ
リブサールに浮かべていた。大型船の場合は、1618年以来VOCがプラウスリブのひ
とつオンルスト島(Pulau Onrust)に設けた造船所が使われていた。


ともあれ、VOCがアジアに築き上げた通商網の軸に位置付けられたバタヴィアには、東
は長崎の出島から西は南アフリカのケープタウン、そしてテルナーテやバンダからペルシ
ャ湾に至る各地の港からさまざまな物資が集まって頑丈に造られた大きな倉庫に蓄えられ、
ヨーロッパで高い市場価値を持つアジアの産品が年に一〜二度、強力な軍船に守られた大
商船団の船倉に詰め込まれてアムステルダム指して出帆して行った。

一方では、VOCの商船は季節風に乗ってアジアの通商網を駆け巡り、ある港で買い付け
た交易品を別の港に持ち込んで巨利をあげるという通商輸送活動を手広く行った。その当
時バタヴィアは、アジアの富が集まるところ、アジアでもっとも繁栄する港のひとつと謳
われた。そのオランダ人たちがやってくるようになった16世紀末のジャヤカルタの港は
どのような様子をしていたのだろうか?[ 続く ]


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